可也山は、福岡県糸島市に位置する標高365.0メートルの山です。糸島半島の西部に位置し、唐津湾に接しています。その標高は500メートルに満たないものの、美しい円錐形を持つ成層火山であり、糸島半島の平野部全域からその姿を望むことができます。その優美な姿から「筑紫富士(つくしふじ)」「糸島富士(いとしまふじ)」「小富士(こふじ)」などと称され、郷土富士のひとつとして親しまれています。
可也山の山体は主に花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)で構成されており、古くから良質な石材の産地として知られていました。登山道の中腹には、福岡藩時代の採石場跡が残されており、当時の石工たちの技術を垣間見ることができます。特に、福岡藩の初代藩主・黒田長政公が栃木県の日光東照宮に寄進した石鳥居は、この採石場から切り出された石を使用しており、これは日本最大の石鳥居として知られています。
可也山には、二つの主要な登山ルートがあります。ひとつは東側から登る「師吉(もろよし)ルート」、もうひとつは南側から登る「小富士ルート」です。いずれのルートも整備されており、登山口から1時間ほどで山頂に到達できます。山頂には三等三角点がありますが、周囲は竹薮に覆われているため展望は望めません。しかし、山頂から北西に200メートルの位置にある可也山展望台からは、芥屋の大門や弊の松原、能古島や博多湾を一望することができます。
可也山は、古代から人々の生活や信仰に深く根付いてきました。弥生時代から奈良時代にかけて、志摩の西側の引津湾には古代朝鮮との往来がありました。渡来してきた人々が、優美なこの山を見て、故郷の朝鮮半島南部にある「伽耶山(かやさん)」を懐かしんで「可也山」と呼んだという説があります。また、奈良時代には新羅に渡った役人が、「草枕 旅を苦しみ 恋ひ居れば 可也の山辺に さ雄鹿鳴くも」という歌を詠み、鹿の鳴き声とともにこの山を眺めたことが記録されています。
可也山は火山としての歴史も持っています。山を構成する大部分の岩石は花崗閃緑岩で、約1億〜9000万年前に地下深くでマグマがゆっくりと冷却されてできたものです。約300万年前には玄武岩が溶出し、火山活動が見られました。現在、師吉ルートの中腹部では、花崗閃緑岩の巨石が露出しており、山頂付近では風化した玄武岩を見ることができます。頂上付近にはいくつかの溶岩噴出口の跡があり、これは展望台のすぐ下からも見ることができます。
師吉ルートの登山道には「石切場」という休憩地点があります。ここには、自然の岩石を割った作業跡が残っており、大きな石には3ヶ所のくさび跡が見られます。昭和30年代には鉄のくさびが、江戸時代には木のくさびが使われていました。この場所で切り出された花崗閃緑岩は、寺社や城の建材として広く利用され、特に日光東照宮の一ノ鳥居は、可也山から切り出された石で作られています。この鳥居は日本最大級の石鳥居として知られ、15個の巨大な石を使用して造立されました。
可也山には神武天皇を祀る可也神社があります。神武天皇が日向の国から東征する際に、国見をするためにこの山頂に立ち寄ったという伝承が残っており、古くから信仰の対象となってきました。現在の可也神社の石祠は、1940年に整備されたもので、当時の可也村の人々や可也小学校の子供たちも協力して材料を運び上げたと言われています。
昭和55年、自然体験ができる場として、可也山の東側の師吉地区に観光ミカン園やいもほり畑、バンガローなどを整備した「可也の苑(さと)」がオープンしました。このときに可也山山頂までリフトも設置され、人々を急斜面をぐんぐんと登っていくスリル満点の乗り物として親しまれました。リフトはランの栽培に使われる若苗の運搬にも利用されていましたが、その後、「可也の苑」は閉園し、リフトも撤去されました。
現在でも、可也山は地元の人々や観光客に親しまれており、春にはかつての「可也の苑」跡地で桜が咲き誇り、花見の季節には多くの人々が訪れます。また、親山自然遊歩道など新しい登山道も整備され、師吉ルートとは異なる趣のある散策が楽しめます。可也神社の御朱印は親山の熊野神社でもらうことができ、山頂を目指す登山者にも人気です。
可也山は、その美しい山容と歴史的背景から、地元のシンボルとして親しまれています。登山や展望台からの景観、古代からの信仰や歴史、そして黒田家との関わりなど、様々な魅力を持つ山です。これからも地域の文化や自然を楽しむ場として、多くの人々に愛され続けるでしょう。