筑前国分寺は、福岡県太宰府市に位置する高野山真言宗の寺院で、山号は龍頭光山といいます。本尊は薬師如来であり、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の一つ、筑前国国分寺の後継寺院にあたります。
現在の筑前国分寺に加え、創建当時の史跡である筑前国分寺跡(国の史跡)、筑前国分尼寺跡(指定なし)、および国分瓦窯跡(国の史跡)についても説明します。
筑前国分寺は、奈良時代に聖武天皇の詔によって建立されましたが、創建に関する詳細な記録は残されていません。延暦20年(801年)に「四王院」から仏像・法具が「筑前金光明寺」に移されたという記録がありますが、これは後に元の場所へ戻されたとされています。また、『延喜式』には筑前国分寺の支出料として32,293束が記録されています。
その後、江戸時代中期には寺は廃絶していましたが、後に薬師如来を安置する小堂が建てられ、これが現在の筑前国分寺の前身となったと考えられます。寺伝によれば、江戸時代には廃絶していた国分寺の再興を願い、江戸から来た修行僧が小庵を結んだことから、寺の復興が始まったとされています。元文年間(1736年-1741年)や天明年間(1781年-1789年)には修復・再興が進められ、その後も幾度かの復興を経て、現在の姿に至っています。
現在の筑前国分寺は、創建当時の金堂跡に重複して建てられています。境内には本堂、礼拝堂、観音堂、庫裏などの堂宇があり、門前には東大寺大仏殿前の燈籠をモデルにした八角燈籠が設置されています。山門を通り抜けると、広がる境内には静寂な雰囲気が漂い、歴史を感じさせます。
筑前国分寺跡は、僧寺跡として約192メートル四方の広大な敷地を持っています。伽藍は中門、金堂、講堂が直線上に配置され、中門の左右から出た回廊が金堂に繋がっています。回廊の内部には七重の塔が配置されており、現在、その位置が復元されています。この形式は、九州や奈良時代以前の寺院に多く見られるものです。
発掘調査の結果、9世紀に塔と講堂が改修され、その後、10世紀に塔、11世紀に講堂が廃絶したと考えられています。金堂のみが草堂的に存続し、現在の筑前国分寺がその上に建てられています。
筑前国分尼寺跡は、僧寺の西方約100メートルの場所に位置しています。発掘調査により、掘立柱建物や東外郭線と見られる溝が発見されました。8世紀後半から9世紀後半にかけて存在したと推定されており、平成27年(2015年)には、「花寺」銘の墨書土器が見つかり、尼寺であったことが確認されました。
国分瓦窯跡は、僧寺の東方に位置する瓦窯の遺構です。山の谷を利用して窯が築かれていましたが、江戸時代に谷がせき止められて池となりました。奈良時代初めから平安時代にかけて長期間使用されたと推定され、この窯で焼かれた瓦は国分寺、大宰府政庁、観世音寺に運ばれました。
筑前国分寺には、室町時代に作られた木造如来坐像(伝薬師如来坐像)があり、これは国の重要文化財に指定されています。この像はその美しい彫刻と保存状態の良さから、歴史的価値が高く評価されています。
筑前国分寺跡と国分瓦窯跡は、国の史跡に指定されています。これらの史跡は、筑前国分寺の歴史と文化を物語る貴重な遺産です。筑前国分寺跡は1922年(大正11年)に指定され、その後、範囲が追加指定されてきました。また、国分瓦窯跡も同年に国の史跡に指定されています。
筑前国分寺の所在地は福岡県太宰府市国分4-13-1です。筑前国分尼寺跡と国分瓦窯跡も太宰府市内に位置しています。
筑前国分寺へは、西鉄天神大牟田線の都府楼前駅から徒歩約17分(1.4km)でアクセス可能です。また、都府楼前駅からまほろば号に乗車し、「筑前国分寺」バス停で下車することで訪れることもできます。九州自動車道太宰府インターチェンジからは約2.3kmの距離にあります。
筑前国分寺の周辺には、若宮神社、国分天満宮(天満神社)、大宰府政庁跡、観世音寺、水城跡などの歴史的な名所が点在しています。これらの名所を巡ることで、太宰府の豊かな歴史と文化をより深く理解することができます。