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城山(宗像市・岡垣町)

(じょうやま)

城山は、福岡県宗像市陵厳寺と遠賀郡岡垣町との境界に位置する標高369.3メートルの山です。宗像四塚の一つとして知られ、宗像地方では有名な山であり、登山のしやすさから九州でも人気のあるスポットです。地元の小学校の遠足などにも利用されており、多くの人々に親しまれています。

城山の歴史と背景

名前の由来

城山という名前は、山頂にかつて宗像氏の蔦ヶ嶽城が存在したことに由来します。しかし、古くは「赤馬山」や「宗像山」、そして「蔦ヶ嶽(つたがたけ)」とも呼ばれていました。蔦ヶ嶽の名前は、今でも宗像市内の小中学校の校歌の歌詞に残されており、地域の歴史と文化に深く根付いています。

蘿神社と蔦ヶ嶽の関係

山麓にある陵厳寺には蘿神社(つたじんじゃ)があり、かつては蔦ヶ岳山頂に位置していました。しかし、氏貞による大改修の際に現在の場所に遷宮されたと伝えられています。この神社もまた、城山の歴史を物語る重要な要素の一つです。

山頂の見どころ

現在の城山山頂には、沖ノ島拝遥所や大きな石灯籠、登山名簿、そして廣田弘毅と林繁蔵の歌碑があります。特に、かつて山頂東にあった城山閣の扁額は、廣田弘毅の揮毫であったと伝えられ、文化的な価値も高い場所です。

城山の文化圏と都市圏の境界

城山は、文化圏や都市圏、さらには方言の境界としても重要な役割を果たしています。宗像市以西は福岡の文化圏(福岡都市圏)に属し、岡垣町以東は北九州の文化圏(北九州都市圏)に属しています。そのため、通勤客の流動も城山を境に大きく変わります。ただし、宗像市と岡垣町の両方が福岡と北九州の両都市圏に属しているため、両都市へのアクセスが可能です。

地理と自然環境

旧宗像郡と遠賀郡の境界

城山は旧宗像郡と遠賀郡の境界に位置し、その自然環境は非常に多様です。山には三郎丸、赤間(福岡教育大学)側、および岡垣側の登山口があり、どのルートからも美しい自然が楽しめます。

名水

城山には美味しい湧水があり、地元では「宗像一」、さらに「日本一の名水」として地元の人々に親しまれています。この名水は地酒の製造にも利用され、地域の特産品としても重要な資源となっています。

冬場の「城山おろし」

城山の周辺では、冬季に強い風が吹きます。この風は「城山おろし」と呼ばれ、地域の気象現象として知られています。

植物と生態系

城山は多くの植物が生息する場所でもあります。ここは南限・北限とされる植物が多く見られ、多様な生息種類が確認されています。特に、この地域だけで見られる亜種も存在し、自然愛好者にとっては貴重な観察スポットとなっています。

四塚連山

四塚連山(よつつかれんざん)は、福岡県宗像市と遠賀郡岡垣町の間に位置する四つの山を指します。地元では「宗像四塚」や「四塚」として親しまれています。

位置と特徴

この連山は、福岡教育大学から鐘崎漁港にかけて、城山(じょうやま)金山(かなやま)孔大寺山(こだいしやま)、そして湯川山(ゆがわやま)の順番で続いています。これらの山々は、それぞれが個性豊かな自然を持ち、歴史的にも興味深いスポットです。

城山の歴史

城山は、江戸時代福岡藩が番所を置いた歴史を持つ山で、その歴史的な背景から、当時の名残を感じられる場所でもあります。現在では、ハイキングコースとして多くの登山者に親しまれています。

四塚連山の起源

四塚連山は、1億年前の海底火山の噴火によって形成された山々です。そのため、地質的にも興味深い特徴を持ち、自然愛好者や地質学者にとっても貴重な場所となっています。

蔦ヶ嶽城

蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)は、福岡県宗像市と遠賀郡岡垣町の境にあった日本の城で、宗像氏の居城でした。別名「赤間山城」や「岳山城」とも呼ばれ、標高369.3メートルの城山山頂に位置していました。

蔦ヶ嶽城の歴史的概要

築城年は定かではありませんが、11世紀の第6代宗像大宮司である宗像妙忠が築いたと伝えられています。その後、第54代宗像大宮司の宗像氏俊や第79代宗像大宮司の宗像氏貞が改修を行いました。特に氏貞の改修は大規模で、尾根を削り、多数の曲輪(くるわ:城の防御施設)を造成しました。城の構造は南北800メートル、東西1キロメートル以上にわたる広大なもので、福岡県内でも屈指の大城郭でした。

城郭の防御構造

曲輪群の斜面は高石垣ではなく切岸(きりぎし)としており、さらにその下には、北部九州で最大級の170条の竪堀(たてぼり)が設けられています。これにより、尾根を伝って攻め込むことが非常に困難な構造となっていました。

戦国時代の宗像氏と蔦ヶ嶽城

蔦ヶ嶽城は戦国時代、宗像氏の居城として重要な役割を果たしました。戦国末期の1561年には、宗像氏貞が城を大改修し、「岳山城」と名を改め、彼の居城としました。しかし、1588年、九州征伐の帰途に立ち寄った豊臣秀吉の命により廃城となりました。

蔦ヶ嶽城の遺構

現在、蔦ヶ嶽城の本丸跡北側斜面には水穴が、南側にはわずかな野良積みの石垣が残るのみです。しかし、土塁や堀切、竪堀の痕跡は今でも確認でき、城の壮大さを物語っています。特に登山を楽しむ人々にとって、城跡は興味深い場所となっています。

近代における蔦ヶ嶽城

蔦ヶ嶽城の遺構の一部である二の丸跡に残る石垣は、1939年に建設された「城山閣」という青少年修養道場のものであり、宗像氏の城とは直接関係はありません。このように、蔦ヶ嶽城は近代においても歴史的な名残を残し続けています。

歴史的エピソード

足利尊氏の入城

1336年、足利尊氏は多々良浜の戦いの際、蔦ヶ嶽城に入城しました。さらに、1370年には第54代宗像大宮司・宗像氏俊が荒廃していた城を修築し、再び入城しています。

宗像氏貞の活躍

1560年、宗像氏貞は大友氏の家臣である立花鑑載や怒留湯直方らの侵攻を撃退し、蔦ヶ嶽城を守り抜きました。1561年には城を大改修し、居城とした氏貞は、戦国時代の宗像氏の勢力を象徴する人物でした。しかし、1586年、氏貞は42歳で亡くなり、宗像家は断絶しました。

豊臣秀吉による廃城

1588年、九州征伐を終えた豊臣秀吉の命により、蔦ヶ嶽城は廃城となりました。その際、櫓や石垣が破却され、城の姿は徐々に消えていきました。

蔦ヶ嶽城や城山は、宗像地域の歴史や自然を感じることができる貴重な場所であり、今でも多くの人々に愛されています。登山者や 歴史愛好者にとって、見逃せないスポットです。

アクセス情報

公共交通機関を利用する場合

JR鹿児島本線の教育大前駅から登山口までは徒歩13分(約1.1km)です。手軽にアクセスできることから、初心者にもおすすめの登山スポットです。

車を利用する場合

車を利用する場合は、九州自動車道の若宮インターチェンジから登山口まで約11km、もしくは古賀インターチェンジから約16kmの距離にあります。駐車場も完備されているため、ドライブでのアクセスも便利です。

Information

名称
城山(宗像市・岡垣町)
(じょうやま)

博多・天神・太宰府

福岡県