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志賀島

(しかのしま)

志賀島は、福岡県福岡市東区に位置する美しい島で、博多湾の北部に位置し、「海の中道」と陸続きとなっている半島でもあります。自然の美しさと歴史的な背景を持つこの島は、古代から現代に至るまで多くの人々に愛されています。

志賀島の概要

志賀島は、古代日本における九州から大陸や半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な役割を果たしてきました。島内には、日本神話に登場する綿津見三神を祀る志賀海神社があり、全国の綿津見神社の総本宮として知られています。4月と11月に行われる例祭では、全国的にも珍しい「君が代」の神楽が奉納されます。

地理的特徴

志賀島は、本土と砂州で陸続きになった陸繋島として知られ、全国的にも非常に珍しい地形をしています。島の南部と西部は博多湾に面し、北部と東部は玄界灘に接しています。北西部には60mほど沖合いに小さな沖津島があり、これも陸繋島の一部となっています。

集落と生活

志賀島には3つの集落があり、南東部の志賀(しか)、西部の弘(ひろ)、北部の勝馬(かつま)がそれぞれの地域を形成しています。志賀と弘には漁港があり、特に志賀島漁港(第2種)と弘漁港(第1種)が存在します。また、勝馬では広大な田畑が広がり、温暖な気候を活かした果樹やイチゴの栽培が盛んに行われています。

志賀島の歴史

古代からの歴史

志賀島の歴史は非常に古く、日本書紀や古事記には、綿津見神の祭主である阿曇氏に関する記述が見られます。また、神功皇后が三韓征伐の際にこの地を訪れたという伝承もあり、古代の半島や大陸との海上交通の拠点としての重要性が示されています。さらに、万葉集では、柿本人麻呂がこの地を「島門」として詠んだ詩が残されています。

元寇と志賀島の戦い

志賀島は、1274年と1281年の元寇の際に重要な舞台となりました。文永の役では、元軍が撤退する際に座礁した兵士がこの島で捕虜となり、弘安の役では志賀島が戦いの舞台となりました。特に志賀島の戦いでは、日本軍が大勝し、元軍はこの地を放棄しました。島内には、この戦いに関連する火炎塚や蒙古塚が残されています。

金印の発見

1784年(天明4年)、志賀島の農民である甚兵衛が田んぼを耕している最中に金印(漢委奴国王印)を偶然発見しました。この発見は、日本史における重要な出来事として広く知られています。

近代から現代へ

1889年(明治22年)の町村制施行により、志賀島は糟屋郡志賀村として成立しました。1930年(昭和5年)には、海の中道の西戸崎と志賀島を結ぶ志賀島橋が開通し、完全に陸続きとなりました。1971年(昭和46年)には志賀町が福岡市に編入され、現在では福岡市東区の一部となっています。

観光スポット

志賀海神社

志賀海神社は、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月には例祭が行われます。神社の境内には神秘的な雰囲気が漂い、多くの参拝者が訪れます。

潮見展望台

潮見展望台からは、志賀島全体や周囲の美しい海の風景を一望することができます。この場所は、観光客にとっても地元の人々にとっても人気のスポットです。

その他の名所

志賀島には、二見岩、金印公園、蒙古塚、火焔塚などの歴史的なスポットが点在しています。また、勝馬海水浴場やダイビングスポットとして知られる白瀬、黒瀬、赤瀬など、豊かな自然が楽しめる場所も多くあります。

交通アクセス

道路アクセス

志賀島へは、和白方面から福岡県道59号志賀島和白線が続いており、島を一周する福岡県道542号志賀島循環線があります。この道路は、2005年に発生した福岡県西方沖地震による崖崩れで一部が不通となっていましたが、2006年に復旧し、現在では全線通行可能です。また、2002年に海の中道とアイランドシティが海の中道大橋で結ばれ、福岡市中心部とのアクセスが大幅に改善されました。

公共交通機関

福岡市中心部(天神)からは西鉄バスが運行しており、志賀地区や弘・勝馬地区へアクセスすることができます。また、博多埠頭からは福岡市営渡船が志賀地区まで運航されており、海からのアクセスも可能です。

まとめ

志賀島は、古代からの歴史と豊かな自然が息づく福岡市東区の美しい島です。歴史的な背景を持つスポットや自然を楽しむ観光地として、多くの人々に愛されています。博多湾を望むこの島は、訪れる人々に癒しと感動を与え続けています。

Information

名称
志賀島
(しかのしま)

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