博多松囃子は、福岡市で毎年5月3日と5月4日に開催される伝統的な祭りです。この祭りは、三福神である福神・恵比須・大黒、そして稚児が福岡や博多の様々な場所を訪問して祝賀する行事で、博多どんたくの起源とも言われています。現在では、博多どんたくの一部として位置付けられていますが、その中核を成す重要なイベントです。博多松囃子は、国の重要無形民俗文化財に指定されており、その文化的価値は非常に高いものです。
博多どんたくの参加者が市内各所でパフォーマンスを繰り広げるのに対し、博多松囃子の一行は市内の主要な場所を巡り、祝賀の儀式を行うことが主な目的です。訪問先には福岡県庁や市庁舎、警察署、ホテル、商家、神社仏閣などが含まれます。
三福神は、それぞれ面や衣装を身に着け、馬に乗って移動します。彼らに付き添う子供たちは、「言い立て」と呼ばれる祝言を歌います。稚児は、舞衣姿の少女が太鼓や鉦、笛に合わせて舞を披露します。訪問を受けた側は、「一束一本」と呼ばれる贈り物を三方に乗せて返礼し、祝儀や酒、紅白蒲鉾、乾物などでもてなします。
博多松囃子の歴史は深く、1179年(治承3年)に平重盛の恩恵に感謝するために始まったとされています。これが博多松囃子の始まりとされており、以降、室町時代を経て現在に至るまで、地域の人々によって受け継がれてきました。
1595年には、博多の人々が筑前領主である小早川秀秋の居城であった名島城へ松囃子を仕立てて年賀の祝いを行いました。その後、松囃子は一時中止されましたが、1642年に再興され、福岡城を表敬する年賀行事として定着しました。
明治維新後、1872年には福岡県からの通達により、松囃子は一度禁止されましたが、1878年には復活し、紀元節を祝う行事として再び行われるようになりました。以降、さまざまな国の祝事にも参加し、その伝統を受け継いできました。
戦時中に再び中止された松囃子は、1946年に「博多復興祭」として復活しました。それ以降、毎年5月3日と4日に開催されるようになり、現在も続いています。1954年には福岡県無形文化財に指定され、1976年には国の選択無形民俗文化財に選定されました。現在は「博多松囃子振興会」が活動を担い、その伝統を守り続けています。
博多松囃子は、福神、恵比須、大黒、稚児の4つのグループから構成されています。それぞれが異なる衣装を身に着け、役割を担いながら福岡市内を巡ります。
福神(福禄寿)は、張り貫きの長い頭、福神の面、茶色の打掛、水色の袴を着用し、馬に乗って移動します。太鼓を叩きながら、祝言を歌う子供たちと共に、町を巡ります。
恵比須は、男女二体の夫婦恵比須で構成され、共に馬上から町を巡ります。男恵比須は烏帽子、面、大鯛を抱え、竿を持ち、女恵比須は天冠、面、檜扇を持ち、金の珠を抱えています。共に、祝言を歌う子供たちと共に移動します。
大黒は、黄絹の頭巾、漆黒の面、紺色の袴、金襴の沙金袋を背負い、小槌を持ち、馬に跨ります。彼らもまた、祝言を歌う子供たちと共に移動します。
稚児は、天冠を被り、舞衣、中啓の扇、緋袴を着用した少女たちで構成され、彼女たちの舞に合わせて笛や鼓が奏でられます。稚児流は三福神とは別行程で町を巡り、2年ごとに東流と西流が交代で当番を務めます。
博多松囃子のもう一つの象徴的な要素が「傘鉾」です。神の依代となる「だし」を頂に、傘には6枚の「垂れ」が下げられています。これらの「垂れ」には羽二重が使用され、近年は「流」や当番町、そして博多松囃子振興会が製作した古式傘鉾が奉納されています。傘鉾をくぐると病気にかからないと信じられています。
博多松囃子は、その歴史と伝統を今に伝える重要な祭りであり、福岡市民のみならず、多くの観光客を惹きつけています。この祭りが持つ文化的な価値は計り知れず、これからもその伝統が受け継がれていくことが期待されています。