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博多祇園山笠

(はかた ぎおん やまかさ)

博多祇園山笠は、福岡市博多区にある櫛田神社で行われる伝統的な神事で、山笠と呼ばれる作り山を奉納する祭礼です。この祭りは、国の重要無形民俗文化財にも指定されており、博多を代表する祭りの一つとして広く知られています。

祭礼の概要

博多祇園山笠は毎年7月1日から15日にかけて行われ、祭りの最終日には「追い山」と呼ばれるクライマックスが繰り広げられます。櫛田神社に奉納された山笠が、所定の順路を競い合いながら巡行するこの行事は、博多の街全体が一体となる壮大なイベントです。

この祭りは、福岡市博多区の博多部で行われ、櫛田神社の氏子が行う奉納行事として、地域住民が主体となり伝統を守り続けています。参加者は「山笠」または「ヤマカサ」と略して呼び、祭り全体を指す「山笠」と区別するため、山笠そのものを「ヤマ」と称することもあります。

山笠の種類と構造

舁き山と飾り山

山笠には「舁き山」と「飾り山」の2種類があります。舁き山は実際に担がれ、街中を巡行するもので、飾り山は静止したまま観賞用に設置されます。舁き山は高さ約4.5メートルに制限されていますが、かつては16メートルを超える高さの山笠もありました。

飾り山には、歴史的な出来事や神話をテーマにした人形が飾られ、その装飾には京都の西陣織や地元の博多織が使われています。毎年、博多の商店街や企業が協賛して飾り山を建て、街の風物詩となっています。

祭りの歴史

起源と発展

博多祇園山笠の起源については諸説ありますが、最も有名な説は、鎌倉時代の1241年に承天寺の開祖である聖一国師(円爾)が、博多で流行した疫病を退散させるために祈祷を行ったことが始まりとされています。この祈祷では、町民が担いだ木製の施餓鬼棚に乗り、水を撒きながら町を清めたと伝えられています。

その後、江戸時代に入ると、博多の町は「流」と呼ばれる町組織によって祭りが運営されるようになり、現在の形が形成されました。追い山が速さを競う行事として確立されたのは18世紀初頭のことです。

近現代の変遷

明治時代以降、博多祇園山笠は幾度かの変遷を経て現在の形に至ります。電信線や電灯線の架設によって山笠の高さが制限されるようになり、飾り山と舁き山が分化しました。戦後には「博多祇園山笠振興会」が発足し、商店街や企業の協賛を得ながら祭りが継続されています。

祭りのしきたりと伝統

女人禁制と掛け声

博多祇園山笠は、古くからのしきたりとして女人禁制の祭りでしたが、2003年にこの伝統的な慣習が女性差別として見直され、現在では「関係者以外立入禁止」という表示に変更されています。また、山笠を巡行する際の掛け声「おっしょい」は、祭りの熱気をさらに高めるものとして知られています。

装束と役割

山笠に参加する舁き手たちは、水法被に締め込み姿で参加します。この装束は、祭りの象徴ともいえるもので、江戸時代からの伝統を引き継いでいます。また、舁き手の役割は厳格に分担されており、各流ごとに組織された町内会がその運営を担っています。

祭礼期間と主要行事

日程と行事の流れ

博多祇園山笠は、7月1日の「注連下ろし」から始まり、7月15日の「追い山」でクライマックスを迎えます。期間中には「流舁き」「追い山馴らし」「集団山見せ」などの行事が行われ、博多の街全体が祭り一色に染まります。

キュウリ断ち

祭りの期間中、関係者はキュウリを食べることが禁じられています。これは、キュウリの切り口が櫛田神社の神紋と似ているためとされています。

アクセスと交通機関

博多祇園山笠に参加するためのアクセスは、福岡市地下鉄やJR博多駅からが便利です。追い山が行われる7月15日には、臨時列車やバスが運行され、多くの観光客が訪れます。

まとめ

博多祇園山笠は、博多の伝統と文化を象徴する祭りであり、その歴史と魅力は今なお多くの人々に受け継がれています。祭りに込められた地域の人々の思いと熱意が、この大規模なイベントを支え続けています。

Information

名称
博多祇園山笠
(はかた ぎおん やまかさ)

博多・天神・太宰府

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