福岡県 » 博多・天神・太宰府

鴻臚館

(こうろかん)

鴻臚館は、平安時代に設置された外交および海外交易の施設です。前身として、奈良時代以前から存在していた筑紫館や難波館がありました。鴻臚館の名称は、北斉時代に存在した九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入されました。「鴻」は大きな鳥を意味し、「臚」は腹を意味しますが、これが転じて伝え告げる意味となり、「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していました。

筑紫の鴻臚館

概要

筑紫の鴻臚館は、現在の福岡県福岡市中央区城内に位置し、福岡城敷地内にあった施設です。現存する鴻臚館の遺構として、唯一その存在が確認されています。この外交施設の起源は魏志倭人伝の時代にまで遡り、伊都国には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していたことが知られています。

筑紫館

527年から528年に起こった磐井の乱の後、536年に那津のほとりに「那津官家(なのつのみやけ)」が設置され、九州支配と外交の役割を果たしました。609年には「筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)」として『日本書紀』に登場し、664年に行政機能が内陸の大宰府に移転されました。その後、那津には海外交流や国防の拠点として筑紫館が残され、唐、新羅、渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能しました。

筑紫館と大宰府の間には約16キロメートルの直線道路が敷設され、最大幅10メートルの側溝が完備されていました。しかし、この道路は8世紀内に廃道となりました。688年には新羅国使全霜林を饗したと『日本書紀』に記されています。また、海外へ派遣される国使や留学僧らのための宿泊所としても利用されました。736年には遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されています。

大宰鴻臚館

鴻臚館の名称が初めて文献に登場するのは、837年の入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』です。また、838年には第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和した記録があります。849年には唐商人53人が鴻臚館に来訪し、その訪問が大宰府から朝廷へ報告されています。

その後、天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されました。鴻臚館はその後も商人や使節を迎える重要な施設として機能しましたが、やがて商業は私営に移行し、11世紀には博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、鴻臚館は衰退しました。

建設位置と発掘調査

発掘調査の歴史

鴻臚館の位置は、長年議論の的となっていました。江戸時代には博多部官内町に位置するとの説が有力でしたが、九州帝国大学教授の中山平次郎が福岡城址説を提唱し、1926年から1927年にかけて論文を発表しました。その後、1948年に福岡城址で行われた国民体育大会に伴う工事で、多くの古代瓦や青磁が発見され、正式な発掘調査が始まりました。

遺構の発見と保存

1987年には平和台球場外野席の改修工事中に、鴻臚館の遺構が良好な状態で発見されました。その後も発掘調査が続けられ、2004年には鴻臚館跡が国の史跡に指定されました。発掘によって木簡や瓦類、中国越州窯系青磁、新羅・高麗産の陶器、イスラム圏の青釉陶器、ペルシアガラスなどが出土しています。また、9世紀後半からの遺構は福岡城建築によって一部が破壊されましたが、多くの遺物が発見されました。

復元と展示

発掘調査が終了した南側遺構には、1995年に鴻臚館跡展示館が建設され、発掘された遺物が展示されています。また、2016年春には遺構が埋め戻され、芝生広場として開放されました。建造物跡地にはその位置を示す印が設けられています。

難波の鴻臚館

難波の鴻臚館は、難波津(現在の大阪市中央区付近)にあったとされます。古墳時代から畿内の港として往来があった難波津には、外国使節を宿泊させるための施設である難波館が存在しました。『日本書紀』には、512年に百済武寧王の使者が難波館に宿泊した記録が残っています。

難波館から鴻臚館へ

難波館はのちに鴻臚館として機能し、外国使節や商人の宿泊や接待に利用されました。しかし、承和11年(844年)には摂津国国府の政庁に転用され、廃止されました。

平安京の鴻臚館

平安京の鴻臚館は、794年の平安京遷都に伴い設置されました。当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇にありましたが、のちに七条に移転し、東鴻臚館と西鴻臚館として機能しました。平安京の鴻臚館は主に渤海使を迎える施設として利用され、渤海使は能登客院や松原客館に滞在し、都に上って鴻臚館に入館しました。

渤海使と平安京の鴻臚館

渤海使は入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、その後は都の者、さらに都外の者と交易を行いました。しかし、渤海国の滅亡後、鴻臚館は次第に衰え、鎌倉時代には消失しました。一説では、920年頃に廃止されたともされています。

末期の鴻臚館

957年に村上天皇が意見封事を求めた際、右少弁菅原文時は外交の再建と文芸の振興のため、鴻臚館の復活を提案しました。このことから、当時の鴻臚館は「復活」させねばならない状態であったことがわかります。

文化遺産としての鴻臚館

『源氏物語』や与謝蕪村の俳句など、鴻臚館は古典文学にも登場します。現在では、東鴻臚館址の碑が京都市下京区に残るのみですが、文化遺産としてその重要性が再認識されています。

利用案内

営業時間: 9時〜17時(12月29日〜1月3日を除く)。入館は16時30分まで。入場無料です。

交通アクセス: 福岡市地下鉄空港線赤坂駅下車徒歩10分。西鉄バス福岡城・鴻臚館前バス停下車徒歩3分、赤坂三丁目バス停下車徒歩5分。

Information

名称
鴻臚館
(こうろかん)

博多・天神・太宰府

福岡県