崇福寺は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の寺院です。同派の三道場の一つであり、九州触頭としての重要な役割を担っています。もともとは大宰府に位置していましたが、黒田長政が筑前の藩主となった際に現在の千代町へ移転しました。崇福寺は福岡藩主であった黒田家の菩提寺として知られ、その歴史は深く、地域の歴史的・文化的な遺産として大切にされています。
崇福寺の歴史は1240年(仁治元年)、太宰府の横岳に湛慧によって建立されたことに始まります。その後、1241年(仁治2年)に円爾が開堂演法を行い、「勅賜萬年崇福禅寺」の名を授かりました。この名は、無準師範から与えられた八大字を掲げたものです。1243年(寛元元年)には、承天寺と共に官寺に列せられ、後嵯峨天皇より「西都法窟」の勅額を賜りました。
その後、崇福寺は幾度かの災難に見舞われました。1586年(天正14年)の岩屋城の戦いで一度焼失しましたが、再建されました。そして、1600年(慶長5年)には福岡藩初代藩主・黒田長政によって現在の福岡市千代町に移転・建立され、黒田家の菩提寺としての地位を確立しました。
崇福寺の伽藍はかつて広大な敷地を誇り、海岸まで続いていました。しかし、1945年(昭和20年)の福岡大空襲で多くの伽藍が焼失しました。戦後には、福岡藩黒田家の墓所が再整備され、縮小されたものの、現在もその歴史を感じさせる重要な場所です。
崇福寺の代表的な建物には、地蔵堂、大雄宝殿、庫裏と鐘楼、唐門などがあります。また、福岡藩主黒田家の墓所もあり、藩祖黒田孝高や長政ら歴代藩主の墓碑が並んでいます。
崇福寺には以下の重要文化財が指定されています。
黒田家の墓所は、黒田孝高(如水)や長政をはじめ、歴代藩主が眠る場所です。現在の墓所は戦災後に再整備され、元々の広さの約五分の一に縮小されています。現在、福岡市に寄贈されており、週末や祝日に限り公開されています。
崇福寺には、讃岐丸亀藩主・京極高豊の正室である市子(松壽院)が寄進した荘厳具が伝わります。この荘厳具は、市子の母である宝厳院筑姫が逝去した際に黒田家が法要を行い、寄進されたものです。母と娘の絆を物語る貴重な遺品です。
崇福寺の周辺には、福岡県庁舎や九州大学病院、福岡市立千代中学校などがあります。交通アクセスも良好で、以下の方法で訪れることができます。
崇福寺は、その歴史の深さや文化財の価値から、福岡市における重要な仏教寺院です。黒田家との深い関わりを持ち、長い歴史の中で数多くの文化財を守り続けてきました。訪れる人々にとって、崇福寺は福岡の歴史と文化を肌で感じることのできる場所となっています。