志賀海神社は、福岡県福岡市東区志賀島に鎮座する由緒ある神社です。式内社(名神大社)であり、全国の綿津見神社、海神社の総本社として知られています。また、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかりの地としても有名で、現在は神社本庁の別表神社として多くの参拝者に親しまれています。
志賀海神社は、「龍の都」と称えられ、全国の綿津見神社の総本社を自称しています。社名「志賀海」は現在「しかうみ」と呼称されていますが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」など、諸説あります。志賀島という島名も、神功皇后の新羅征討の際に当地を「近島(ちか)」と呼び、のちに「資珂島(しか)」と転訛したという伝承があります。
志賀海神社の祭神は、「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される三柱の神々です。
これらの神々は、『古事記』や『日本書紀』にも登場し、海の神として崇められています。特に、阿曇氏の祖神または奉斎神とされ、阿曇氏が奉じる神々として広く知られています。
志賀海神社の創建時期は不詳ですが、社伝によれば、古くは志賀島北側の勝馬浜に表津宮・仲津宮・沖津宮の三宮が存在し、阿曇氏祖である阿曇磯良によって表津宮が現在の境内に遷座されたと伝えられています。現在、仲津宮と沖津宮は摂社として祀られています。
志賀島は古代から海上交通の要衝として重要視され、阿曇氏がこの地域を支配していました。志賀海神社は、阿曇氏の本拠地であり、現在も志賀島全域が神域とされています。
志賀海神社に関する最古の記録は、『住吉大社司解』に「那珂郡阿曇社三前」や「志賀社」として記載されたものです。また、天安3年(859年)には「志賀海神」が従五位上に昇叙され、『延喜式』神名帳には「志加海神社三座 並名神大」として記載されています。
鎌倉時代には、元寇の際に志賀島が戦場となり、『蒙古襲来絵詞』にも「志賀島大明神」として描かれています。以降、南北朝時代から戦国時代にかけて武家の支配を受け、特に小早川氏や黒田氏の庇護を受けました。
近代社格制度の導入に伴い、明治5年(1872年)に村社に列し、大正15年(1926年)には官幣小社に昇格しました。これにより、志賀海神社は福岡県内でも重要な神社の一つとして位置づけられるようになりました。
志賀海神社の境内は志賀島南側に位置しており、古くは志賀島北側にあった表津宮が遷座されたと伝えられています。境内には多くの文化財が点在しており、特に「鹿角堂」には1万本以上の鹿の角が奉納されています。また、「亀石」と呼ばれる霊石もあり、神功皇后が新羅征討の際に阿曇磯良が亀に乗って現れたという伝承に基づいています。
志賀海神社には、摂社5社と末社19社があり、その多くは古代から伝わるものです。特に、沖津宮や仲津宮は古くからの由緒を持ち、それぞれが独自の歴史を刻んでいます。
志賀海神社の例大祭は「国土祭(くにちさい)」として知られ、隔年で行われる御神幸祭が最大の行事です。神輿が出輿し、頓宮での芸能奉納や本殿への遷御が行われるこの祭りは、古式を伝える重要な行事として福岡県指定無形民俗文化財に指定されています。
志賀海神社には、鍍金鐘(ときんしょう)や石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)など、数多くの重要文化財が伝わっています。これらは神社の歴史と共に保存され、現在も多くの参拝者や研究者の注目を集めています。
志賀海神社へは、福岡市中心部から西鉄バスや福岡市営渡船を利用してアクセスできます。志賀島の自然豊かな環境に包まれたこの神社は、観光客にとっても訪れる価値のある場所です。
志賀海神社は、古代からの歴史と伝承を色濃く残す福岡市東区志賀島にある由緒ある神社です。その祭神や由来、そして数多くの文化財が物語るように、この神社は日本の歴史と文化を知る上で欠かせない存在となっています。ぜひ一度訪れて、その神秘と歴史を感じてみてください。