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大宰府(政庁跡)

(だざいふ)

大宰府跡は、1921年(大正10年)3月3日に国の史跡に指定され、1953年(昭和28年)3月31日には国の特別史跡に指定されました。その後、1970年、1974年、2009年、2014年(3月と10月の2回)、2015年に追加指定が行われ、現在の指定面積は320,235.91平方メートルに達しています。政庁(都府楼)地区の他、約1キロメートル離れた客館跡(西日本鉄道二日市車両基地跡)も特別史跡大宰府跡に含まれています(2014年10月追加指定)。

大宰府の設立とその役割

大宰府は7世紀後半、九州の筑前国に設置された地方行政機関です。主な任務は軍事と外交で、九州地方の内政も担当していました。歴史書の中には「太宰府」とも表記されていますが、いずれも同じ施設を指しています。政庁の中心は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市に位置し、その遺跡は国の特別史跡に指定されています。

行政と軍事の中心地としての大宰府

大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)は、外交・軍事の要地に任命され、広範な地域を統治する地方行政長官でした。大宰府は、九州地方全体を管轄し、さらに中国大陸や朝鮮半島との外交にも関わっていました。北九州が古くから外交や交易の玄関口として重要視されていたため、大宰府には迎賓館「鴻臚館」が設置され、海外使節の接待も行われていました。

大宰府跡の現代の評価

2015年4月24日には、文化庁から「古代日本の『西の都』〜東アジアとの交流拠点〜」として日本遺産に認定されました。大宰府は、東アジアとの交流の窓口として古代日本の外交・文化の中心地として評価されています。

交通の要衝としての日田街道

大宰府には日田街道(宰府往還)という主要な交通路があり、北は博多、南は豊国の日田に繋がっていました。また、日田を起点として別府や日向国、肥国といった各地と往来することができ、大宰府は九州内外への重要な交通拠点でもありました。

大宰府跡の区画と施設

大宰府跡は現在の太宰府市および筑紫野市に広がっており、その遺跡の面積は約25万4000平方メートル、甲子園球場のおよそ6.4倍の広さです。主な建物としては、政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司などが挙げられますが、確認された遺跡は少ないものの、その存在が歴史的に重要なものであることは明らかです。

大宰府の拡張と追加指定

「大宰府跡」は1921年に国の史跡に指定され、その後の1953年には特別史跡に格上げされました。さらに1970年から2015年にかけて度重なる追加指定により、現在の広大な面積に至りました。2014年には、西日本鉄道二日市車両基地跡にある客館跡も特別史跡大宰府跡に含まれるようになりました。

歴史的な大宰府の役割

大宰府は、日本の歴史において軍事・外交の要衝として重要な役割を果たしてきました。その前身として、福岡市にある那珂遺跡群から出土した三角縁神獣鏡などの考古学的な証拠があり、これが大宰府の前身であったと考えられています。また、魏志倭人伝に記される「伊都国の一大率」は、大宰府のシステムと類似していると指摘されています。

水城の築造

大宰府の防衛拠点である水城は、時代を経て三層にわたって築造されたことが放射性炭素年代測定により判明しています。最も古い層は西暦100年から300年頃に、次の層は西暦300年から500年頃に、そして最上層は西暦510年から730年頃に築かれたとされています。この水城は、大宰府が外敵からの侵入を防ぐために重要な役割を果たしていました。

飛鳥時代と白村江の戦い

大宰府は、飛鳥時代においても重要な防衛拠点でした。663年の白村江の戦いでの敗北後、大宰府はその防衛機能を強化し、吉備大宰や周防総令、伊予総領といった他の地域の防衛拠点も整備されました。しかし、大宝律令(701年)の施行後は、九州における大宰府のみが残され、他の大宰は廃止されました。

大宰府の文化的意義

大宰府は、古代日本においてアジア大陸との文化交流の窓口として機能し、多くの外交使節が訪れました。これにより、日本は中国や朝鮮半島からの文化的影響を受け、古代日本の発展に大きく寄与しました。今日では、その歴史的意義が再評価され、特別史跡として保存されています。

大宰府跡を訪れる意義

大宰府跡を訪れることで、古代日本の外交・軍事・文化の中心地としての重要性を実感することができます。広大な遺跡地には、多くの歴史的建造物や遺構が存在し、その中に残された古代の日本の姿を垣間見ることができるでしょう。

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大宰府(政庁跡)
(だざいふ)

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