榎社(別名:榎寺)は、太宰府天満宮の境内にある神社で、菅原道真が901年(昌泰4年・延喜元年)に大宰府に左遷されてから903年(延喜3年)に逝去するまで謫居した跡とされています。榎社の正式な所在地は福岡県太宰府市朱雀に位置しており、その名の通り大宰府政庁跡の南側にあります。
榎社の起源は、1023年(治安3年)に大宰大弐・藤原惟憲が菅原道真公の霊を弔うために建立した「浄妙院」にあります。この社殿は、もともと府の南館にあったとされ、境内には榎の大樹があったことから「榎寺」と呼ばれるようになりました。現在は「榎社」として知られています。
また、2016年(平成28年)の境内発掘調査では、9世紀後半から10世紀初頭にかけての掘立柱建物の遺構が発見され、菅原道真の晩年期と重なる時代の建物跡として、注目されています。
毎年9月には、太宰府天満宮で行われる「神幸式大祭」では、菅原道真公の御神輿がこの榎社に神幸され、御旅所として一夜を過ごします。御旅所の後ろには、小さな祠があり、その祠に祀られているのは、道真公に対して哀れみを抱き、梅ヶ枝餅を差し入れたとされる「浄妙尼(じょうみょうに)」です。
道真公は、この地での生活の苦しさを詠んだ詩を残しており、その詩が西鉄都府楼前駅前に陶板として展示されています。「都府楼」とは、大宰府政庁を指し、この名称は道真公の詩に由来しています。
菅原道真公は901年に大宰府に左遷され、903年にこの地で亡くなるまで、榎社のある場所に住んでいました。道真公が左遷された際、彼を弔うために1023年に藤原惟憲が「浄妙院」を建立しました。境内に生えていた榎の大樹にちなみ、「榎寺」としても知られるようになり、現在では「榎社」と呼ばれています。
毎年9月に行われる神幸祭(どんかん祭り)は、榎社にとって最も重要な祭事の一つです。太宰府天満宮の神幸祭では、道真公の神輿が雅やかな行列と共に榎社に到着し、御旅所で一夜を過ごします。通常は人影の少ない榎社が、この夜だけは多くの参拝者で賑わいを見せます。
御旅所の後ろにある小さな祠には、道真公を日夜世話したと伝えられる「浄妙尼」が祀られており、神輿はまずこの祠の前で宮司による奉幣が行われます。
道真公がこの地で送った生活は非常に哀れなものでした。その哀しさを表す詩として有名なのが以下の句です。
都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声(都府楼は纔かに瓦色を看、観音寺は只鐘声を聞く)
この詩は、白居易が江州に左遷された際に詠んだ「遺愛寺の鐘欹枕聴 香炉峰の雪撥簾看」の一節に倣ったものです。この詩を通じて、道真公が左遷され、孤独に過ごした哀愁を感じることができます。
菅原道真公は、大宰府に下る際、幼い隈麿と紅姫の二人を連れて行くことを許されました。榎寺での生活は非常に困難でしたが、子どもたちの存在が道真公の唯一の心の支えでした。しかし、道真公は大宰府で病に倒れ、さらに幼い隈麿も到着の翌年に病で亡くなります。
榎社の近くに小高い丘があり、「隈麿之奥都城(くままろのおくつき)」とされる祠があります。この場所は、隈麿の墓とされています。
紅姫のその後については定かではありませんが、榎社の境内に彼女の供養塔があり、また「隈麿の墓」の近くにも「紅姫の供養塔」とされる石碑がかつてありました。現在、その供養塔は筑紫野市の児童公園に移設されています。
8世紀中頃から9世紀中頃にかけて、大宰府に来た外国使節を安置する「客館」がこの地に存在していたと推定されています。
榎社の鳥居の前、踏切のすぐそばには「鶴の墓」と呼ばれる高さ約1.2メートルの楕円形の自然石が立っています。伝説によると、木製の鶴が空を飛んだという話があり、この地は「鶴畑(つるはた)」と呼ばれていました。
榎社から東へ少し歩いた場所には、「晴明の井」と呼ばれる井戸があります。これは平安時代の陰陽師、安倍晴明が開いたと伝えられており、日照りの時でも涸れることがないとされています。この水を使うと安産に恵まれるという信仰もあります。
2019年に「令和」が新元号として発表された際、この榎社周辺が大伴旅人の邸宅跡である可能性があると指摘されました。坂本八幡宮付近と合わせて、旅人の居住地であったとされています。
榎社周辺には、王城神社や、三条実美お手植えの松(個人宅)など、歴史的価値のあるスポットが点在しています。
榎社へのアクセスは、西鉄二日市駅から徒歩5分、西鉄都府楼前駅からもほど近い場所にあります。歴史と伝説に包まれたこの地を、ぜひ一度訪れてみてください。