脊振山は、標高1,054.6メートルを誇る脊振山系の最高峰であり、福岡県福岡市早良区と佐賀県神埼市との境に位置する山です。日本三百名山の一つに数えられ、山頂には航空自衛隊やアメリカ軍のレーダーサイト(脊振山分屯基地)が設置されています。
脊振山は、江戸時代後期まで「廣瀧山」と呼ばれていました。山麓には武家の廣瀧家を中心に村が築かれており、この家は織田家の正式な家紋と同じ五つ木瓜を使用していました。脊振山の正式な表記には「脊」が用いられ、「背」ではないことに注意が必要です。
脊振山系は、古くから霊山として知られ、修行僧が集まる山岳密教の修験場でもありました。そのため、山中には多くの修験道の痕跡が残っています。かつて「脊振山」という名前は、山系全体にある坊(僧侶の住む場所)を指す総称でした。現在の脊振山山頂は「上宮獄」と呼ばれていました。
脊振山の山頂には、脊振神社の上宮があり、ここでは弁財天がご神体として祀られています。五穀豊穣の神として、肥前や筑前の農民たちの信仰を集め、現在でも多くの参拝者が訪れています。
隣接する千石山の中腹には、脊振山中宮にあった中心的な坊である霊仙寺の跡が残っています。この場所は、日本で初めて茶の栽培が行われた場所としても有名で、栄西が中国から茶の種を持ち帰り、ここで栽培を始めたとされています。霊仙寺跡から少し歩いた場所には、サザンカの自生北限地があり、群生する姿を楽しむことができます。
九州北部の平地部は温暖ですが、脊振山の山間部は冬季に多くの積雪を伴います。特に寒波の際には50センチメートル以上の積雪を記録することもあり、2011年の寒冬には最深積雪が1メートル以上に達しました。例年、11月下旬に初雪が降り、12月8日頃には初冠雪が観測されます。
脊振山の標高800メートル以上のエリアには、ブナやアカガシの天然林が広がっています。さらに、カエデやミズナラ、ツツジなども豊富で、下草にはミヤコザサが見られます。また、山体の大部分は白亜紀中期の花崗岩で構成されています。
脊振山の山頂には、戦後の冷戦時代に米軍のレーダー施設が建設され、その後航空自衛隊に移管されて脊振山分屯基地として利用されています。さらに、警察庁や新聞社の通信施設も設置されており、脊振山は重要な戦略拠点となっています。また、気象観測所も近くにあり、1940年頃に初代観測所が設置されました。
1947年から1950年にかけて、後にシカゴ大学教授となる藤田哲也が、脊振山観測所で気象観測を行いました。彼は後に竜巻やダウンバーストの研究で世界的な権威となり、その研究は脊振山での観測から始まりました。
脊振山は、その地理的条件と濃霧の発生しやすさから、北部九州の航空の難所として知られています。1936年、1938年、1987年にそれぞれ航空機が遭難しており、特に1936年の事故ではフランスの飛行士アンドレ・ジャピーが遭難しましたが、旧脊振村民により無事救出されました。彼を記念する碑が山頂付近にひっそりと建てられています。
脊振山の山頂直下には駐車場があり、自動販売機やトイレも設置されています。駐車場からは、山頂まで約300メートルの距離で、登山道は整備されています。九州自然歩道が山頂を縦走しており、多くのハイキング客が訪れます。
車道としては、福岡県側からの防衛省専用道路と佐賀県側からの佐賀県道305号が山頂付近に通じています。防衛省専用道路は工事期間以外であれば一般車も通行可能ですが、大型車の通行は禁止されています。また、冬季は積雪が多いため、車での通行には十分な注意が必要です。
脊振山は、歴史的な価値と豊かな自然を併せ持つ魅力的な山です。登山やハイキング、そして山頂からの美しい景色を楽しむことができるこの場所は、福岡県と佐賀県の境界を超えて、多くの人々に愛されています。これからも脊振山は、その自然の美しさと歴史的な重要性を保ちながら、多くの訪問者を迎えることでしょう。