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立花山

(たちばなやま)

立花山は、福岡市東区、糟屋郡新宮町および久山町にまたがる標高367.1mの山です。この山は都市部に近いことから、豊かな自然に恵まれた場所として、南側に位置する三日月山(みかづきやま)とともに地元住民に親しまれています。また、立花山は中世の立花山城(立花城)の跡地としても知られ、歴史的な価値も高い山です。

立花山の名称と地形

山群の構成

立花山は7つほどの峰からなる山群であり、そのうち3つの峰が特に目立ちます。立花山という名称は、これらの峰全体を指す総称としても使われますが、特に最高峰である標高367.1mの井楼山(せいろうやま、または本城)を指すことが一般的です。井楼山の北西には約0.4km離れて松尾山(松の尾、337m)、さらにその西には白岳(しらたけ、314m)があります。この他にも、大小の峰が点在しており、18世紀の『筑前国続風土記』には「大ツブラ」「小ツブラ」「大一足」「小一足」といった名称が記されています。

立花山の景観と伝承

立花山は、南西の福岡市東区香椎から見ると、周囲から独立して突き出た3つの峰(白岳、松尾山、井楼山)が並び立つ姿が印象的です。一方、北の新宮町や玄界灘からは二峰の山のように見え、かつては海や陸の交通の目印としても利用されてきました。古くは「二神山」とも呼ばれ、イザナギ・イザナミを祀る伝承が残っています。また、立花山の名前の由来については、805年に最澄が唐から帰国後、立花山に独鈷寺を建立した際、立てかけていたシキミの枝が根を張り、やがて花が咲いたことから名付けられたと伝えられています。

立花山のクスノキ群落

地質と植生

立花山の地質は、北側の花崗閃緑岩と南側の三郡変成岩の古生層に二分されます。山全体は広く照葉樹林に覆われており、特にクスノキが優勢な特異な構成を持つ山です。山中には数千本のクスノキがあり、その中には樹高30mを超える巨木も600本以上存在し、その規模は日本国内で他に例がありません。立花山のクスノキは原生林ともされ、その分布の北限にあたりますが、特異な植生や一部に一列に並ぶ木が見られることから、江戸時代を通じて「御留山」(おとめやま)として伐採が禁じられ、保護・育成されてきたものではないかとする意見もあります。

クスノキ巨木群と指定保護

立花山の東斜面には特に多くの巨木があり、立花口登山道の途中からクスノキの巨木群生地へと至る道があります。6合目以上に広がるクスノキは、1928年に国の天然記念物に、1956年には特別天然記念物に指定されました。また、2000年には特に大きなクスノキである「立花山大クス」が林野庁の「森の巨人たち百選」のひとつとして選定されました。この大クスは幹周り約8m、樹高30m、樹齢は少なくとも300年と推定されています。

立花山城の歴史

立花山城の築城と役割

立花山城は、鎌倉時代末期の1330年に豊後大友氏の大友貞載(立花貞載)によって立花山山群に築かれました。それ以来、立花山は南北朝・戦国時代を通じて、交易拠点であった博多を見下ろす軍事的に重要な要塞となりました。1569年には勇猛な武将として知られた戸次鑑連が、毛利軍と戦った後、立花道雪として立花山城の城督となりました。その後、1586年に立花統虎(立花宗茂)が島津軍の大軍の侵攻に対して立花山城に篭城し、激戦の末これを撃退しました。

立花山城の廃城と遺構

1601年に福岡城が築城された際、立花山城の石垣は福岡城に移築され、立花山城は廃城となりました。現在では、山頂の本丸跡にわずかに石垣と古井戸が残るのみとなっています。これらの遺構は、井楼山から松尾山へ至るルートの途中などに点在しています。

登山とハイキング

立花山・三日月山の登山道

立花山および三日月山は、ハイキング気分で気軽に自然を楽しめる山として、一年を通じて休日には家族連れで賑わいます。立花山への登山道は、北の新宮町立花口、西の福岡市東区下原(しもばる)からのルートがあり、いずれも麓から約40〜50分で井楼山の頂上に到達します。立花城本城の跡であった山頂は平らで、西側が開けており、玄界灘から海の中道を挟んで博多湾や福岡市街を一望でき、快晴の日には壱岐や沖ノ島まで眺望できます。

三日月山の登山道

三日月山への登山道は、南西の長谷ダムのダム湖奥やダムの南端、三日月温泉そばからアクセスすることができます。また、井楼山からは尾根づたいに約30〜40分で三日月山に到達します。山頂からは360度にわたる広大な眺望が広がり、元旦の初日の出や花火大会の時期には多くの登山者で賑わいます。

立花山城の概要

立花山城の位置と規模

立花山城(たちばなやまじょう、りっかさんじょう)は、福岡市東区、糟屋郡新宮町および久山町にまたがる標高367mの立花山の山頂にあった日本の城で、「立花城」とも呼ばれています。城は立花山の山頂に築かれ、大小7つの峰のうち、最も高い井楼山に本城が築かれました。本城の東には松尾岳、西には白岳があり、それぞれの山頂にも出城があり、立花山全体を要塞とした大規模な山城でした。

立花山城の沿革

元徳2年(1330年)、豊後国守護の大友貞宗の次男、大友貞載によって立花山城が築かれました。これにより、大友氏は「立花氏」を名乗るようになりました。立花山城は、港町博多を見下ろす重要な拠点であり、戦国時代には大内氏や毛利氏と大友氏との激しい争奪戦が繰り広げられました。

立花宗茂と立花山城

戦国末期の天正14年(1586年)、当時20歳の立花統虎(後の立花宗茂)は、この城に篭り、実父である高橋紹運の岩屋城を落とした島津勢約4万の侵攻に対し、徹底抗戦しました。豊臣秀吉の九州征伐後、立花氏は筑後国柳川城に移封され、新たな城主として小早川隆景が入城しました。しかし、経済的意義が求められるようになると、山城である立花山城は存在意義を失い、名島城の築城後は支城に、その後、黒田長政が福岡城を築いた際に廃城となりました。現在では、山頂の本丸跡にわずかな石垣跡と古井戸跡が残るのみです。

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名称
立花山
(たちばなやま)

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