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織幡神社(織幡宮)

(おりはた じんじゃ おりはたぐう)

織幡神社は、福岡県宗像市鐘崎に鎮座する神社で、式内社(名神大社)であり、旧社格は県社です。現在は、宗像大社の境外摂社として位置付けられており、宗像五社の一つに数えられています。地元では「織幡宮」や「シキハン様」として親しまれています。

境内と自然環境

境内の特徴

織幡神社の境内は、玄界灘と響灘を分ける鐘ノ岬の先端に位置し、佐屋形山の中腹にあります。境内は豊かな天然林に覆われており、イヌマキをはじめとする数多くの植物が自生しています。この天然林は「織幡神社のイヌマキ天然林」として福岡県指定の天然記念物に指定されています。

社殿と境内社

現在の本殿は元禄8年(1695年)に、拝殿は元禄16年(1703年)に造営されたもので、歴史的価値が高い建造物です。また、境内にはいくつかの境内社が鎮座しており、祭神の武内大臣が残した沓を埋めた「沓塚」や、沈鐘伝説にまつわる巨石も見ることができます。

祭神について

主な祭神

織幡神社の祭神は、以下の7柱の神々です。

歴史的背景と祭神の選定

『延喜式』神名帳(927年成立)では、織幡神社の祭神は1座とされていますが、15世紀中頃に成立した『宗像大菩薩御縁起』では武内大臣が主祭神として記されています。その後、『筑前国続風土記』において、武内大臣、住吉大神、志賀大神の3柱が祭神として挙げられ、現在の祭神7柱の形に至っています。主神としては、武内大臣、住吉大神、志賀大神が中心となっています。

神仏習合の時代と本地仏

神仏習合の時代には、織幡神社の本地仏として如意輪観音が信仰されていました。また、宗像大社旧神宮寺の鎮国寺では、織幡神社を含む宗像五社の本地仏像が現存し、福岡県指定文化財に指定されています。

創建と伝承

織幡神社の創建に関する伝承

織幡神社の創建に関しては、15世紀中頃に成立した『宗像大菩薩御縁起』に記されています。伝承によると、神功皇后の三韓征伐の際に、宗像大社の神である宗大臣が「御手長」という旗竿に武内大臣が織った紅白2本の旗をつけて戦ったとされ、これが「織幡」という社名の由来とされています。

海人族との関係

織幡神社の境内は海に突き出した鐘ノ岬にあり、古代においては海人族が祀っていた海の神を祀る場所だったとする説があります。また、『万葉集』には、鐘ノ岬を過ぎる際に海の神に祈る歌が残されており、当時の海上交通や信仰との関連性が指摘されています。

『日本書紀』との関連

『日本書紀』の応神天皇紀には、天皇が呉(現在の中国南部)から工女を得ようとした際、宗像大神にその工女を献上したという伝承があり、織幡神社との関連が考えられます。この伝承から、工女が神格化され、武内宿禰が織物に関わる渡来系氏族の祖として祭神に選ばれたという説もあります。

歴史

国史と神階

織幡神社の歴史は、平安時代の記録に遡ります。嘉祥3年(850年)には「織幡神」に従五位下の神階が授けられ、その後、天安3年(859年)に従五位上、元慶元年(877年)には正五位下に昇進しています。これにより、織幡神社が当時の朝廷においても重要な神社であったことが分かります。

中世の発展と宗像社の影響

中世には、宗像社(現・宗像大社)の影響を強く受けるようになりました。文永2年(1265年)の記録によれば、当時、宗像社神宮寺の鎮国寺に「鐘崎織幡明神」の本地仏が祀られていたことが記されています。また、文安年間(1444年-1449年)に成立した『宗像大菩薩御縁起』では、織幡大明神は宗像五社の一柱として記されています。

近代以降の発展

明治時代に入り、織幡神社は近代社格制度に基づき、明治5年(1872年)に村社に列せられ、その後、明治10年(1877年)には宗像大社の境外摂社となりました。さらに、明治15年(1882年)に郷社、昭和3年(1928年)には県社に昇格し、現在の地位に至ります。

伝承と沈鐘伝説

沈鐘伝説

織幡神社の鎮座する鐘ノ岬には、異国の釣鐘が海に沈んでいるという「沈鐘伝説」が伝わっています。この伝説は全国各地で見られますが、鐘ノ岬と福井県の金ヶ崎は特に有名です。大正8年(1919年)に鐘ノ岬で釣鐘と見られていた物体が引き上げられましたが、それは釣鐘ではなく巨石であったことが判明しました。現在、この巨石は織幡神社の参道に安置されています。

Information

名称
織幡神社(織幡宮)
(おりはた じんじゃ おりはたぐう)

博多・天神・太宰府

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