水城は、福岡県の太宰府市、大野城市、春日市にまたがって築かれた日本の古代の城です。城跡は1953年(昭和28年)3月31日に国の特別史跡「水城跡」として指定されています。
水城は、『日本書紀』に「筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き、水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と記載されている古代の防衛施設です。白村江の戦いにおける敗戦後、唐・新羅軍の侵攻の脅威を受け、倭国(日本)では防衛体制の整備が急務とされました。このため、天智天皇三年(664年)に辺境防衛のための防人(さきもり)や情報伝達のための烽(とぶひ)が対馬島や壱岐島、筑紫国などに配置されました。さらに、白村江の戦いの翌年には筑紫国に水城が築かれ、その翌年には大野城が築かれました。これらは、大宰府の防衛のために設置されたとされています。
水城は、大野城が位置する四大寺山(大城山)と西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の最も狭い部分を塞ぐ形で造られています。全長約1.2キロメートル、高さ9メートル、基底部の幅約80メートル、上部の幅約25メートルの二段構造の土塁で、東西にそれぞれ東門と西門が設けられています。土塁の基底部には、長さ79.5メートル、内法幅1.2メートル、内法高さ0.8メートルの木樋(もくひ)が埋設されており、土塁の博多側の現水田面より約5メートル下に、幅60メートル、深さ4メートルの外濠が存在しています。
水城は、平野を遮断する直線的な土塁と外濠を備えた「城壁」(防塁)としての役割を果たしていました。中央には御笠川が北流しており、沖積地の軟弱な地盤上に築かれています。土塁の最下層部には、多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する敷粗朶(しきそだ)工法が採用されており、上層部は土質の異なる土を10センチメートルずつ硬く締め固めて積み上げる版築(はんちく)という技術で構築されています。
水城は、博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する「遮断城」として、重要な防衛拠点でした。東門と西門が設けられており、福岡方面からの交通の要所となっていました。特に西門は、大宰府と筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ主要な儀礼的な道として、8世紀後半まで機能していたことが確認されています。
水城の西方には、丘陵の間を塞ぐ複数の小規模な土塁遺構があり、これらは「小水城(しょうみずき)」と総称されています。例えば、土塁の長さ約80メートルの「上大利小水城」、土塁の長さ約100メートルの「大土居小水城」、土塁の長さ約80メートルの「天神山小水城」などがあります。これらの小水城も、水城と連携して大宰府を守るために構築されたものと考えられています。
基山町にも、水城と同様の関屋土塁跡やとうれぎ土塁跡があり、これらも「小水城」と呼ばれています。これらの遺構は、基肄城(きいじょう)に連なると考えられており、大宰府の防衛体制の一部を成していました。
天智政権は、白村江の敗戦以降、唐や新羅との戦争に関与せず、友好外交を進めながら、対馬から九州北部、瀬戸内海、畿内へと連携する防衛体制を整えました。大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形や大野城、基肄城といった山城、平野部の水城や小水城などで防備を固めていました。この防衛体制は、百済の泗沘(しひ)都城に由来するとされていましたが、近年では大宰府が当時はまだ機能していなかったとして否定されつつあります。
『日本書紀』には、以下のような防衛施設の設置が記載されています。
水城に関する考古学的調査は、1913年(大正2年)の黒板勝美・中山平次郎による土塁断面の調査から始まりました。その後、1930年(昭和5年)には長沼賢海・鏡山猛による木樋の調査が行われました。本格的な発掘調査は1970年(昭和45年)に開始され、以降、福岡県教育委員会や九州歴史資料館、太宰府市、大野城市が継続的に調査を行っています。
1975年(昭和50年)の発掘調査では、水城大堤の博多側に外濠が存在することが判明しました。1978年(昭和53年)には、8世紀後半の「水城」銘の墨書土師土器が発掘されました。2013年から2014年にかけて、福岡県教育委員会は100年ぶりに土塁断面の再調査を実施しました。
九州管内や瀬戸内海沿岸の城は、その配置や構造から一体的に計画されたもので、7世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業であるとされています。2019年には、大野城市下大利にある「父子嶋(ててこじま)」が国特別史跡「水城跡」に追加指定されました。
水城は、その歴史的背景や構造、機能から、日本の古代史や防衛体制を知る上で非常に重要な遺構です。訪れる際は、その壮大な土塁の姿や歴史的背景に思いを馳せながら散策することで、古代の日本が直面していた国際的な脅威と、それに対する対応を理解する一助となるでしょう。