遠賀川は、福岡県の筑豊地方から北九州市、中間市、遠賀郡を流れる一級河川です。流域の市町村は7市14町1村に及び、流域内の人口は約67万人に達します。この川は、九州で唯一鮭が遡上する川として知られ、豊かな生態系と歴史的な背景を持つ重要な河川です。
遠賀川が「遠賀川」と呼ばれるようになったのは、明治20年代後半、石炭輸送が盛んになった時期ではないかと考えられています。それ以前の記録では「直方川」との表記が見られるものの、「遠賀川」という名称は用いられていません。明治20年の地図には「嘉麻川」と表示されていましたが、下流に位置する「遠賀郡」に由来して「遠賀川」と呼ばれるようになったと推測されています。
「遠賀」という名前の起源については、古代の文献にまで遡ります。『古事記』の時代、この川の河口一帯は「岡」(おか、旧仮名では「をか」)と呼ばれており、のちに「遠賀」(おんが)へと転訛したと言われています。
遠賀川は、福岡県嘉麻市にある標高978メートルの馬見山を源流とし、彦山川や犬鳴川などの支流を合わせながら筑豊地方の平野部を流れ、最終的には福岡県北部の響灘へ注ぎます。流域では、弥生時代初期の遠賀川式土器が見つかっており、歴史的にも非常に価値のある地域です。
流域の土地利用は、山地が約80%、水田や果樹園などの農地が約14%、宅地や市街地が約6%を占めています。また、人口密度は約620人/km²と高く、川と人々の生活が密接に結びついている地域です。しかし、洪水の危険性も高く、川が氾濫した際には大きな被害をもたらすことがあるため、河川管理が重要視されています。
明治時代以降、筑豊地方では炭鉱が多く開かれました。その当時、「川ひらた」と呼ばれる川舟が石炭輸送の手段として利用され、遠賀川と堀川、江川などの運河を往来していました。しかし、次第に鉄道輸送が発達し、舟運は廃れていきました。炭鉱が盛んだった時期、川の水質は鉱山廃水によって深刻に汚染されていましたが、エネルギー革命による炭鉱の閉山と下水道の普及により、遠賀川の水質は大幅に改善されました。
遠賀川は現在、九州で唯一、鮭が遡上する川であり、その遡上は国内の南限とされています。上流の嘉麻市には、鮭を神様の使いとして祀る「鮭神社」があり、毎年12月には「献鮭祭」が開催されています。このような伝統行事は、地域の歴史と自然とのつながりを深く象徴しています。
遠賀川の河川敷は、市民の憩いの場として利用されています。コスモス、菜の花、チューリップなどが咲く季節には多くの人々が訪れ、特に春には「のおがたチューリップフェア」が直方市役所前河川敷で開催されます。このイベントでは、18種類、約10万本のチューリップが見事に咲きそろい、訪れる人々を魅了します。
遠賀川流域には、さまざまな利水施設が存在し、地域の生活や産業に貢献しています。以下は主な利水施設です。
遠賀川は、過去にいくつかの大規模な水害を経験しています。特に1953年の「昭和28年西日本水害」では、旧植木町が全域で水没し、約5200人が避難を余儀なくされました。この洪水は、炭鉱の衰退を加速させる要因の一つとなりました。
また、2003年の集中豪雨では、飯塚市を中心に大規模な洪水が発生し、甚大な被害がもたらされました。飯塚市中心部は水没し、被害総額は49億7000万円に達しました。この災害は、地域のインフラの復旧にも大きな影響を与えました。
遠賀川やその支流では、さまざまなイベントが開催され、地域の人々に親しまれています。以下は主なイベントの一覧です。
遠賀川の名は、北九州市出身の作家リリー・フランキーの小説『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』にも登場します。この作品では、遠賀川が筑豊を象徴する川として描かれています。また、作中で「遠賀川にはかっぱがいるという伝説」が言及されており、この川が多くの伝説や物語の舞台となっていることがわかります。
遠賀川流域では、独特の「川筋気質」が根付いています。この言葉は、川の氾濫によって苦労を重ねた人々が、互いに助け合う精神を育んだことに由来しています。地域の人々は、長い年月をかけて川と共生しながら、独自の文化を築いてきました。