三里松原は、福岡県遠賀郡岡垣町(黒山・原・内浦・手野・吉木・糠塚)から芦屋町までの響灘沿岸部に広がる美しい松林です。隣接する海岸と合わせて「三里松原海岸」とも呼ばれ、一帯は玄海国定公園に指定されています。
この松林は、福岡県岡垣町の波津海水浴場から芦屋町の矢矧川河口に至る約12kmにわたり広がり、最大で1.3kmの奥行きを誇ります。松林は、海から吹き付ける風や飛砂から地域の農地や集落を守る重要な役割を果たしてきました。藩政時代初期から松林の植栽と保護活動が行われ、現在も地元住民やボランティア団体によって継続的な保護活動が続けられています。
松原周辺は、サイクリングやウォーキングが楽しめるサイクリングロードが整備されており、四季折々の自然を満喫できるスポットです。夏季には海水浴やキャンプを楽しむ観光客が多く訪れます。また、浜辺や松林には希少な動植物が数多く生息しており、特にアカウミガメの産卵地としても知られています。
三里松原は、玄海国定公園の一部であると同時に、「日本の白砂青松100選」や福岡県の「快適な環境スポット」にも選ばれています。さらに、全域が林野庁の管轄する国有林であり、防風保安林として森林法に基づく保護が行われています。
松原が3里(約12km)にわたって続いていることから「三里松原」という名がつけられました。地元では「浜山」や「下山」とも呼ばれ、古くから筑前五所松原の一つとして知られていました。また、「恒崎松原」として、神功皇后がこの地に宿陣した伝説も残されています。
松林の歴史は1655年、黒田藩主黒田光之の命により植栽が開始されたことから始まります。当時は強風や飛砂が農作物に悪影響を与えていたため、藩や村民が松を伐採することが禁じられ、植え替えが命じられました。1738年には福岡藩の家老吉田六郎太夫により「浜山植立証文」が公布され、松林の維持が徹底されました。
1751年からは本格的な植え立て事業が始まり、芦屋・糠塚・黒山・松原の4ヶ村にわたって松が植えられました。この事業によって「三里松原」という名が定着し、広く知られるようになりました。1897年には国有林に編入され、防風保安林に指定されました。
戦後、三里松原は米軍によって接収され対地射爆撃場として利用されましたが、1978年にすべての地域が岡垣町に返還されました。その後も住民やボランティア団体による保護活動が続けられ、1987年には「日本の白砂青松100選」に選出されました。
三里松原の約7割をクロマツ林が占めており、残りは常緑広葉樹林や混交林が広がっています。標高によって植生が異なり、標高の高い場所ではクロマツ林が多く、低い場所では広葉樹や混交林が見られます。近年、クロマツ林は減少傾向にあり、福岡県のレッドデータブックにも登録されています。
2010年の調査では292種もの植物が確認されており、汐入川河口付近には希少なハマボウ群落やハマウツボなどが生育しています。動物では、アカウミガメやタカの仲間であるミサゴ、絶滅状態にあるハマグリなどが確認されています。特にアカウミガメは毎年6月から7月にかけて産卵のために浜辺に上陸します。
三里松原は、飛砂や潮風から背後の村や農作物を守るために植え立てられました。現在もその防風・防砂機能を発揮しており、松林が潮風に含まれる塩分をろ過する役割を果たしています。また、松林は航海の目印としても利用され、魚付き林としても機能しています。
2001年には松原内を通るサイクリングロードが整備され、サイクリングやウォーキングが楽しめるようになりました。また、波津海岸では夏季に海水浴場が開設され、多くの観光客が訪れます。ボランティアによるレンタサイクルも展開されており、松原の美しい景色を楽しむことができます。
1738年から続く三里松原の保護活動は、現在も地元住民やボランティア団体によって継続されています。しかし、広大な面積ゆえに管理が行き届かず、松林の老齢化やマツクイムシの被害が深刻化しています。このため、1994年に保護団体が設立され、植樹や除伐、松葉かきといった保護活動が行われています。
黒田藩主黒田光之によって松林の植栽が開始される。
吉田六郎太夫によって「浜山植立証文」が公布され、松林の保護が徹底される。
芦屋・糠塚・黒山・松原の4ヶ村で本格的な植え立て事業が行われる。
三里松原が国有林に編入され、防風保安林に指定される。
第二次世界大戦後、米軍により接収され対地射爆撃場が設置される。
岡垣対地射爆場が返還され、すべての地域が岡垣町に戻る。
三里松原が「日本の白砂青松100選」に選出される。