朝倉揚水車は、1760年代から1780年代にかけて設置された日本最古の実働する水車です。現在、朝倉には3か所の揚水車があり、それぞれの所在地の集落名にちなみ、上流側から「菱野水車(ひしのすいしゃ)」、「三島水車(みしますいしゃ)」、「久重水車(ひさしげすいしゃ)」と呼ばれています。もともと4基存在しましたが、最上流の水車は水路の末端に与える影響を考慮して電動揚水機に変更されました。
これらの揚水車は、灌漑面積が合計約35ヘクタールに及び、毎年6月17日から10月中旬までの稼働期間中、稲作のために重要な役割を果たしています。ただし、稲の作付け期間中に行われる水田から水を一時的に落とす「中干し」の期間(7月下旬から8月初旬の約1週間)は稼働を一時休止します。
菱野三連水車は1分間に6,100リットルの水を汲み上げることができる、非常に効率的な水車です。汲み上げられた水は木製の樋で集められ、その後、地中に埋められたサイフォンを使って高所に送水されます。
朝倉の地には、自然流入だけでは灌漑が難しい小高い土地が存在し、これらの土地に水を供給するために揚水車が必要とされました。そのため、堀川用水の速い流れを利用して、1788年(天明8年)までに上流部の菱野村を中心に3基の二連揚水車が設置されました。これにより、菱野村、三島村、久重村の高地でも稲作が可能となり、地域の農業生産性が向上しました。
揚水車の原型は、筑後国三瀦郡大莞村で発明された足踏式の水車とされていますが、人力による高所への送水は困難でした。そこで、朝倉では堀川用水の水流を動力源として利用し、揚水車を設置しました。菱野揚水車の灌漑面積は13町5反、三島揚水車は10町5反、久重揚水車は11町とされ、これらの揚水車が設置されたことで、35町(約35ヘクタール)の土地が水田として利用できるようになりました。
設置当初は二連揚水車が使用されていましたが、1789年(寛政元年)には菱野の揚水車が増設され、三連揚水車となったという記録が残っています。これにより、さらに広範囲な灌漑が可能となり、地域の農業に大きな貢献を果たしました。
堀川用水(ほりかわようすい)は、筑後川右岸に位置する福岡県朝倉市にある農業用の用水路で、旧朝倉町及び甘木市の計664ヘクタールの水田を潤しています。この用水は、床島用水、大石長野用水、袋野用水とともに「筑後川四大用水」の一つに数えられ、その中でも最も古く開削されたものです。
堀川用水の建設は、江戸時代前期の1663年(寛文3年)に福岡藩士の木村長兵衛、魚住五郎右衛門によって着工され、翌年に完成しました。現在の取水口は朝倉市山田にある「山田堰(やまだぜき)」で、ここから始まる用水路は、分岐点(田中突分)で北線と南線に分かれます。北線が元々の堀川用水であり、南線は1764年(明和元年)に古賀十作義重によって完成された新堀川です。
堀川用水沿いには、日本最古の実働する水車である三連水車1基と二連水車2基があり、「朝倉の三連水車」として昭和62年度手づくり郷土賞「水辺の風物詩部門」を受賞しました。さらに、1990年には用水路とともに「堀川用水及び朝倉揚水車」として国の史跡に指定されました。
また、「堀川用水」は2006年に農林水産省の疏水百選に選ばれ、「山田堰」は2012年に土木学会の土木学会選奨土木遺産に認定されています。さらに、「山田堰、堀川用水、水車群」は2014年(平成26年)9月に国際かんがい排水委員会によって「かんがい施設遺産」に登録されました。これらの評価は、堀川用水と朝倉揚水車が日本の農業史において重要な役割を果たしていることを示しています。
山田堰は、これまでに何度も洪水被害を受けましたが、その都度復旧工事が行われてきました。1980年の水害では山田堰の42%が被災しましたが、総額6億5,000万円を投じて総張石コンクリート造で原形復旧が行われました。しかし、2017年7月の九州北部豪雨では、堀川用水の水車群付近に大量の流木と土砂が流れ込み、水車は一時停止しましたが、原形は保たれていました。その後、市と山田堰土地改良区による復旧作業が行われ、約1か月後の8月2日に通水・稼働が再開されました。
堀川用水と朝倉揚水車は、地域の農業発展に大きく寄与してきました。その設置と運営により、かつては農業が困難だった高地の土地も水田として利用できるようになり、地域の農業生産性が飛躍的に向上しました。また、これらの施設は、現代においてもその歴史的価値と技術的意義が評価され続けています。
これからも、地域の人々とともに堀川用水と朝倉揚水車の保存と活用が進められ、次世代へとその伝統が受け継がれていくことが期待されます。