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英彦山神宮(英彦山権現)

(ひこさん じんぐう)

英彦山神宮は、福岡県田川郡添田町の英彦山に位置する、古代より信仰の対象とされてきた神社です。旧社格は官幣中社であり、現在は神社本庁の別表神社に指定されています。また、通称「英彦山権現」としても知られています。

概要

英彦山は、標高1,199メートルの南岳を主峰とする北岳・中岳・南岳の3つの峰から構成されています。山の中央部である中岳の山頂から山腹にかけて、上津宮・中津宮・下津宮の3つの宮があり、その下には奉幣殿が鎮座しています。さらに、英彦山の広域には摂末社が点在しています。

祭神

英彦山神宮の主祭神は、次の3柱です。これらは、北岳・中岳・南岳それぞれに対応して祀られています。

主祭神

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) - 北岳

配神

神仏習合時代には、これらの神々は「法体権現」「俗体権現」「女体権現」と称され、合わせて「彦山三所権現」と総称されていました。1213年に編纂された『彦山流記』によると、祭神と本地仏の関係も記されています。

歴史

創建・伝承

英彦山は古代から神体山として信仰されていたと考えられています。当社の開基には、いくつかの伝承が残されています。例えば、継体天皇25年(531年)に北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山で修行していた際、日田の猟師である藤原恒雄と出会い、彼に殺生の罪を説いたという話があります。恒雄が白鹿を射た際、3羽の鷹が現れて鹿を生き返らせたのを見て、恒雄は神の存在を悟り、善正の弟子となり寺を建立したとされています。

別の伝承では、祭神忍骨命が降臨した地として祠が建てられたのが起源とも伝えられています。いずれの伝承にしても、11世紀初頭に増慶が再興するまでの歴史は限られた記録しか残っていません。

社名の変遷

当初は「彦山」と呼ばれていましたが、弘仁10年(819年)、僧法蓮が山中で飛来した鷹の羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見つけ、嵯峨天皇に上申し、「日子山」から「彦山」に改称されました。さらに江戸時代には、「英」の字が加わり「英彦山」となりました。

修験道との関係

英彦山はかつて修験道の一大拠点として繁栄し、12世紀からは西国修験道の中心地として3000以上の僧坊を擁しました。後伏見天皇の皇子である助有法親王を座主に迎えて以降、その直系が座主を世襲するようになりました。

江戸時代以降の変遷

元弘3年(1333年)には、奉幣殿を含む社殿が焼失しましたが、1616年に小倉藩主細川忠興が奉幣殿を再建しました。江戸時代後期には「英」の字を授けられ、「英彦山」として知られるようになりました。

近代の歴史

明治時代の神仏分離により、修験道が廃止され、「英彦山神社」として国幣小社に列しました。1883年には宮司の高千穂宣麿が男爵の称号を得て華族に列しました。1898年には官幣中社に昇格し、1975年には「英彦山神宮」に改称されました。

境内

英彦山神宮の境内には、数多くの歴史的建造物や社があります。以下はその一部です。

奉幣殿(国の重要文化財)

奉幣殿は、江戸時代前期の1616年に細川忠興によって再建された建物で、国の重要文化財に指定されています。

銅鳥居(国の重要文化財)

佐賀藩主鍋島勝茂の寄進による銅鳥居は、寛永14年(1637年)に鋳物師谷口清左衛門によって制作されました。霊元天皇の宸筆による勅額が掲げられています。

摂末社

境内には、多くの摂末社も点在しています。例えば、産霊神社、中津宮、下津宮、玉屋神社、大南神社、中島神社などが挙げられます。

祭事

英彦山神宮では、年間を通じて多くの祭事が行われています。以下はその代表的な祭事の一覧です。

文化財

英彦山神宮には、数多くの国指定の重要文化財が存在します。以下にその代表的なものを紹介します。

奉幣殿(国の重要文化財)

元和2年(1616年)に細川忠興が再建した入母屋造りの建物で、英彦山霊仙寺の大講堂でした。

銅鳥居(国の重要文化財)

寛永14年(1637年)に佐賀藩主鍋島勝茂が寄進した銅鳥居で、鋳物師谷口清左衛門が制作しました。

修験板笈(しゅげんいたおい)

元亀3年(1572年)の作で、修験道の修行者が使用していた背負い箱です。

英彦山神宮は、その歴史的背景や信仰の重要性から、多くの参拝者や観光客を引きつける魅力的な神社です。その文化財や祭事、自然環境とともに、神仏習合時代の歴史を今に伝えています。

Information

名称
英彦山神宮(英彦山権現)
(ひこさん じんぐう)

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