求菩提山は、福岡県豊前市と築上郡築上町の境界に位置し、標高782メートルを誇る筑紫山地の一部です。麓の豊前市のシンボル的な存在であり、かつては英彦山や犬ヶ岳と共に修験道の山として知られていました。神秘的な山容や豊かな歴史に彩られたこの山は、地域の人々にとって長年の信仰の対象でした。
求菩提山は中世初期までは英彦山の影響下にありましたが、中世末期には聖護院の支配下に入り、修験道の中心地として発展しました。その後、山岳信仰の盛んな場所として栄え、最盛期には約180の坊(修行所)を有するほどの規模を誇りました。しかし、幕末期には54坊まで減少し、明治時代の神仏分離政策により、求菩提山護国寺は国玉神社となり、修験道の拠点としての役割は終焉を迎えました。
求菩提山の山頂には、国玉神社上宮が鎮座しており、古くから多くの参拝者が訪れています。この神社に至る850段の石段は「鬼のあぶみ」とも呼ばれ、山を荒らし回っていた鬼が求菩提権現との誓約により、一晩で築いたという伝説が残っています。
山頂付近には、修験道に関連する「求菩提五窟」と呼ばれる洞窟が存在します。これらは、普賢窟や多聞窟、迦陵頻伽の彫刻が施された岩洞窟であり、国宝や重要文化財に指定されたものも含まれています。これらの遺跡や遺物は、求菩提山の長い歴史と修験道の信仰を物語っています。
求菩提山の周辺には湧き水が多く、豊かな自然環境が広がっています。また、昭和25年(1950年)には耶馬日田英彦山国定公園の一部に指定され、2001年には史跡名勝天然記念物に、さらに2012年には「求菩提の農村景観」として日本の重要文化的景観にも選定されています。山頂からは、南に英彦山や犬ヶ岳、東には豊前市街地や周防灘の美しい眺めを楽しむことができます。
求菩提山には鴉天狗(からすてんぐ)の伝説も伝えられており、この伝説に基づいて、豊前市のマスコットキャラクター「くぼてん」が作られました。「くぼてん」は、鴉天狗をイメージしたキャラクターであり、求菩提山の象徴として地域の人々に親しまれています。
求菩提山の信仰の中心に位置するのが「国玉神社」(くにたまじんじゃ)です。国玉神社には山中腹にある中宮と、山頂にある上宮が存在し、かつては求菩提山護国寺と呼ばれていました。ここは修行僧たちが修行を積んだ場所で、多層塔(仏塔)や講堂などが設けられていました。
お田植え祭りは、毎年3月の最終日曜日に開催され、国玉神社の最大の行事です。この祭りは福岡県の無形民俗文化財に指定されており、田行事としても知られる「松会(まつえ)」の一環です。祭りではその年の豊作を祝う予祝祭が行われ、田植えにまつわる農作業の風景を、地元の松役や子どもたちが演じます。
山頂にある国玉神社の上宮(じょうぐう)は、求菩提信仰の中心でした。ここには、神聖な巨石群があり、神の降臨する場所として崇められていました。また、「辰の口」と呼ばれる岩穴からは蒸気が立ち上り、古い時代にはこの山が火山であった可能性が示唆されています。
求菩提山護国寺として知られていたこの場所には、多宝塔や講堂などの七堂伽藍が建てられていました。現在でも鬼神社などの堂宇が残り、修験道の祭礼「松会」行事が行われる場所です。毎年3月29日には「お田植え祭り」が盛大に行われ、多くの見物客で賑わいます。
この鳥居は、昭和30年代に鳥居畑集落から移築された「東の大鳥居」で、かつては山門があり仁王像が守護していましたが、1901年の台風で倒壊しました。
求菩提山には「鬼の石段」という伝説があります。かつて犬ヶ岳に住む鬼たちが村人に迷惑をかけていましたが、求菩提の権現様が鬼たちに、一晩で山頂まで石段を築くよう命じました。この石段は「鬼の階段」として現在も存在し、その段数は850段とも言われています。
五窟は、修行僧たちが修行に励んだ場所です。大日窟、普賢窟、多聞窟、吉祥窟、阿弥陀窟がその中心で、特に普賢窟には国宝に指定された「銅板法華経」が納められていたと言われています。今でもその岩の割れ目から「ゴォー」という音が聞こえ、地元では梵音と伝えられています。
ゴマ場は、修行僧たちが祈祷を行った場所で、五窟と犬ヶ岳との分岐点に位置します。ゴマ壇は確認されていませんが、修行において非常に重要な場所です。
修験道の山では、今でも女人禁制の場所があります。求菩提山では集落内で妻帯が認められていましたが、修行の場は神聖な場所と俗界を区別する必要があり、この石がその境界を示していました。
修行僧たちはこの場で水を浴び、身を清めて修行に励みました。かつては滝のように水が流れていましたが、平成3年の台風で水量が減少しました。冬には見事な氷柱が見られることもあります。
求菩提山は、豊前市の南に位置し、その標高782メートルの円錐形の姿が特徴です。山は凝灰岩や集塊岩からなり、安山岩質の溶岩が散在しているため、かつて火山であったことが推測されています。求菩提山信仰は、このような自然の力に対する畏怖から始まったと考えられています。
山頂からは、5世紀から6世紀にかけての須恵器の小片が出土しており、この山が古代から信仰の対象であったことがわかります。さらに、平安時代末期には天台宗の僧・頼厳によって修験道が再興され、以降「一山五百坊」として多くの山伏が住み、英彦山と並んで北部九州の修験道の中心として栄えました。
しかし、明治元年(1868)の神仏分離令や修験道廃止令によって、求菩提山の修験道は衰退しました。求菩提山護国寺は廃寺となり、多くの仏教遺産が失われましたが、一部の文化財が現在も求菩提山資料館や山中に残されています。
平安時代の末期に、求菩提山中興の祖・頼厳とその弟子たちは、仏法の衰退を恐れ、銅板に法華経や般若心経を刻み、これを後世に伝えようとしました。この銅板法華経は、胎蔵窟(普賢窟)から発見され、全国的にも非常に貴重な文化遺産とされています。
求菩提山とその周辺には、今も多くの修験道の遺跡が残っています。鳥井畑のバス停付近にはかつて東の大鳥居が立っていました。山中には石門、座主館跡、みそぎ場、坊跡、三十三観音石像などが点在し、修験道が栄えた往時を偲ばせます。
求菩提山は、文化財としても非常に重要な場所です。昭和28年には「銅板法華経」が国宝に指定され、その他の経塚出土品や修験道に関連する遺品も重要な文化財として保存されています。これらは求菩提山資料館で展示され、修験道の歴史を知る貴重な資料となっています。
求菩提山の祭り「お田植え祭り」は、松会(まつえ)という五穀豊穣を祈る祭りの一部であり、鎌倉時代から続く古い伝統を持ちます。毎年3月29日に国玉神社中宮で行われ、地域の人々が五穀豊穣を祈願します。
求菩提山には多くの文化財が存在し、その中でも以下のものが特に重要です。
求菩提山へのアクセスは、JR九州日豊本線宇島駅から豊前市バス岩屋線に乗車し「求菩提登山口」で下車する方法があります。自動車でのアクセスの場合、東九州自動車道豊前インターチェンジから山頂までは約15キロメートルの距離です。冬季には標高が高いため、路面の凍結や積雪に注意が必要です。
求菩提山は、その豊かな自然環境と修験道の歴史、そして数々の文化財によって地域の人々に深く愛されてきました。訪れる人々は、山頂からの素晴らしい景観を楽しみながら、歴史と自然の調和を体感することができます。四季折々の風景を楽しめる求菩提山は、修験道の霊山としてだけでなく、文化的・歴史的な価値を持つ貴重な山であり、これからも大切に守り伝えていくべき存在です。