犬鳴御別館は、福岡県宮若市犬鳴にあった日本の城(館)です。幕末に福岡藩が建設したこの御別館は、歴史的に重要な役割を果たし、その名残を今に伝えています。建設当時の地名は「犬鳴谷村」で、福岡藩の政治的背景や対立の中で生まれた場所です。
犬鳴御別館は、幕末期の福岡藩での内紛の中で、福岡藩中老職である加藤司書の提案により建設されました。元治元年(1864年)7月に着工し、翌年の慶応元年(1865年)に竣工しました。この御別館は、勤王攘夷派が福岡藩の防衛拠点として計画したもので、福岡藩主を守るための施設として重要視されていました。
当時、福岡藩では勤王攘夷派と佐幕派が鋭く対立しており、犬鳴御別館は勤王攘夷派が主導して建設されたものです。加藤司書はその中心人物であり、もし藩主の黒田長溥が勤王攘夷に賛成しなかった場合には、藩主を御別館に幽閉し、子の黒田長知を奉じる計画が立てられていました。しかし、この計画が発覚し、慶応元年6月20日(1865年8月11日)には、勤王攘夷派の全員が逮捕され、乙丑の獄と呼ばれる厳しい処罰が行われました。
竣工後、御別館は一度、黒田長知が明治2年(1869年)に藩内視察の際に宿泊したという記録があります。しかし、以後は放置され、明治17年(1884年)に暴風によって倒壊してしまいました。倒壊後の廃材は近隣の民家や安楽寺などで再利用されたことが確認されていますが、現在ではその遺構はほとんど失われています。
犬鳴御別館は、正面に大手門、左側に搦手門と石垣が配置されており、城内には庭園が広がっていました。古文書によると、城内には御殿や足軽詰所、宝蔵、火薬蔵があり、城外には足軽が配置された番所があったとされています。また、犬鳴に入る各峠には構口(番所)が設けられ、犬鳴在住の足軽が守備にあたっていたとされています。
平成10年(1998年)に、久山町の旧久野邸から犬鳴御別館の敷地と藩主館の見取り図が描かれた『犬鳴御別館絵図』が発見されました。この絵図をもとに、平成19年(2007年)には宮若市観光協会などが御別館を模型として復元しました。復元された模型では、藩主館に玄関が設計されていないことが判明し、これは御別館が藩主を幽閉するために設計された可能性を示唆しています。
平成20年(2008年)に、見取り図をもとに作成された御別館の模型が、宮若市中央公民館 若宮分館に展示されています。この模型では、大手門や搦手門が二層造りの楼門として再現されていますが、平成27年(2015年)に福岡市博多区の古美術品店で発見された明治7年(1874年)の御別館の古写真では、両門とも単層の八脚門として写されていました。この発見により、模型と実際の構造に違いがあったことがわかりました。
犬鳴御別館の城内には、加藤司書の忠魂を讃える「加藤司書忠魂碑」が建てられています。この碑文には、「海邊近キ舞鶴城ノ不便ト此ノ地此ノ溪谷ヲ以テ第二ノ福岡城トナシ以テ一朝有事ノ際ニ備エントシテ犬鳴ノ別館ヲ築ク」と記され、犬鳴御別館が福岡藩の第二の拠点として建設されたことがわかります。また、「薩長両藩」という言葉も刻まれており、当時の政治的背景が反映されています。
犬鳴御別館を訪れるには、県道21号線を利用して犬鳴ダムまで行き、ダム入口からダム湖沿いに約2km北上する必要があります。御別館手前には車両通行規制があり、規制区域手前での駐車が必要です。また、JR九州バスの直方線を利用し、司書橋バス停で降車後、ダム湖沿いの道を歩いて約40分ほどで到着します。
犬鳴御別館は、福岡藩の歴史的な対立と勤王攘夷派の動きが交錯した場所として、その歴史的意義を今に伝えています。現在では模型や資料を通じてその姿を知ることができ、忠魂碑や遺構の一部が現地で見られるようになっています。歴史的な背景や当時の藩内の緊張を感じながら、犬鳴御別館を訪れることで、幕末の福岡藩の一端に触れることができるでしょう。