嘉穂劇場は、福岡県飯塚市飯塚に位置する歴史的な劇場です。建物は国の登録有形文化財として認められ、また近代化産業遺産にも認定されています。
1921年(大正10年)、嘉穂郡飯塚町に株式会社中座が麻生太七を社長として設立されました。資本金は15万円で、太七は炭鉱経営者で貴族院議員でもあった麻生太吉の弟でした。中座は大阪市の道頓堀にあった中座を模した木造3階建の芝居小屋で、6代目尾上菊五郎の公演で幕を開けました。
1928年に漏電が原因で火災が発生し、中座は全焼しました。その後、1929年に再建されましたが、翌1930年に台風で倒壊し、株式会社中座は解散しました。
中座の支配人であった伊藤隆が個人で再建を決意し、1931年に木造2階建の劇場として「嘉穂劇場」を開場しました。劇場の観客層は炭鉱労働者とその家族が中心で、筑豊地域において文化的な役割を果たしていました。
1956年には力道山を招いたプロレス興行が行われ、地域の人々を大いに盛り上げました。1962年には年間266日の公演が行われるほど盛況を極めていましたが、その後は公演数が減少し、1975年頃には年間30日から40日の公演数となりました。
1979年からは九州演劇協会による「全国座長大会」が毎年開催されるようになり、嘉穂劇場の名物公演として親しまれるようになりました。また、劇場の存続を訴える運動が活発に行われ、伊藤家による運営の努力と地域の支援が結びつきました。
2003年の豪雨で嘉穂劇場は甚大な被害を受け、1階部分が使用不能となりましたが、多くの芸能人によるチャリティイベントなどを通じて復興資金が集められ、2004年には再び公演が可能となりました。
2006年には登録有形文化財に、2007年には近代化産業遺産に認定されました。その後、劇場の運営がNPO法人化され、地域の文化施設として役割を果たす新たな体制が整えられました。
2021年5月にNPO法人嘉穂劇場が解散し、劇場は休館しました。同年9月、建物は飯塚市に寄贈され、耐震補強をはじめとする改修工事が行われることが決定しました。市によるクラウドファンディングも行われ、目標額を大幅に上回る資金が集まりました。
嘉穂劇場は、江戸時代の歌舞伎小屋様式を基にした木造2階建で、間口18.2m、奥行き16.4m、プロセニアムの高さは4.5mとされています。また、廻り舞台や花道、セリなどの舞台設備が整っています。
現在、嘉穂劇場は耐震補強や設備の修繕が進行中です。飯塚市は建物を維持しつつ、さらに地域文化の発信拠点として劇場の活用方法を模索しています。改修工事の完了とともに、地元文化の支援者たちによって新たな再開が期待されています。