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賀茂神社(うきは市)

(かも じんじゃ)

賀茂神社は、福岡県うきは市浮羽町山北に位置する歴史的な神社です。この神社は、摂社である三次神社や日吉神社と共に、京都の上賀茂神社および下鴨神社の神々を祀っています。古くから地域に根ざし、神武天皇や賀茂大神にまつわる伝説や歴史的な祭事が数多く伝わっている、神秘的な場所でもあります。

賀茂神社の歴史と縁起

賀茂神社には長い歴史があり、神武天皇との深いつながりが語られています。慶安4年(1651年)に当社の行直大宮司が記した旧記には、賀茂大神がこの地に天降り、神武天皇が大和への東遷の際、賀茂大神が八咫烏(やたがらす)としてその旅を助けたことが記されています。この伝承は、神武天皇と賀茂大神を一緒に奉祀する理由となっており、神社の重要な縁起として今日に伝わっています。

境内からは縄文土器や石器、群集石棺群が発見されており、これらの発掘物が旧記の信憑性を裏付けていると考えられます。また、賀茂神社の社家の初代として、武内宿禰(孝元天皇の曾孫)の19世である波多臣広庭の後裔、波多次郎救家の嫡男である久家和州が名を連ねています。

賀茂神社の祭神

賀茂神社では以下の祭神が祀られています。

浮羽の地と賀茂神社の関わり

浮羽の地は、古代から文献に度々登場し、その場所が特定できる特異な地域です。的邑(いくはのむら)や以久波、宇枳波、生葉、浮羽など、さまざまな表記がされていますが、すべてがこの地域を指しています。正平元年(1346年)には、後醍醐天皇の遺詔に基づき、郡司日田出羽守大蔵永敏と山北四郎大蔵永高が賀茂神社を奉遷しました。初代大宮司には熊懐平右馬太夫波多宿祢行景が任命されました。

正平16年の祭祀と「おくんち」

正平16年(1361年)、征西将軍懐良親王は、九州を戦乱から守るため、竹林因三位中将を賀茂神社に奉勅使として派遣しました。この時、懐良親王は賀茂神社に紳鏡幣帛を奉納し、山城国賀茂祭の格式で祭祀を行いました。この祭りは代々受け継がれ、現在も「おくんち」として続いています。

戦乱と復興の歴史

天正7年(1579年)、大友宗麟の命により、柴田長門守嶺能が耶蘇教徒数千人を率いて神社仏閣を焼き討ちし、賀茂神社も摂社共々焼失しました。しかし、その後、神社は復興され、仮殿が建てられました。また、25の末社が賀茂神社に合祀され、慶安4年(1651年)には神殿と拝殿が再建されました。境内には観音寺が建立されましたが、明治時代の神仏分離令により清水寺に移されました。

賀茂神社の境内と末社

賀茂神社の境内には、多くの末社が存在しています。以下はその一部です。

天満神社

天満神社は、延宝8年(1680年)に矢隈から勧請され、明治三年に賀茂神社の境内に移されました。祭神は菅原道真公で、例祭は毎年1月11日に行われます。

五穀神社

五穀神社は、明和3年(1766年)に建立され、保食神と稲次因幡正誠命を祀っています。例祭は12月1日に行われます。

琴平神社

琴平神社は、寛政7年(1795年)に讃岐国から勧請され、戦後に賀茂神社の境内に移されました。例祭は毎年4月の第1日曜日です。

その他の末社

摂社について

日吉神社(山王神社)

日吉神社は建久7年(1196年)に宮司家の初代である波多久家和州が、近江国坂本の日吉大社から勧請した神社です。宮の前古墳の墳丘上に建てられており、裏手には賀茂神社古墳群があります。

三次神社(元宮様)

三次神社は、人皇第12代景行天皇が西国を巡狩された際、この山北の地で霊畤(まつりのにわ)を立て、熊襲の平定を祈ったことに由来しています。その後、日本武尊や仲哀天皇もこの地で神祈を行い、後に「三次神社」として広く知られるようになりました。

まとめ

賀茂神社は、福岡県うきは市における歴史的・文化的に重要な神社であり、長い歴史を持つ場所です。神武天皇や賀茂大神との深い縁起を持ち、祭神を大切に祀りながら、地域の人々によって守られ続けてきました。境内には多くの末社や摂社があり、それぞれに独自の由来と歴史を持つ神社です。訪れることで、日本の古代史や神道の深い文化に触れることができます。

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賀茂神社(うきは市)
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