高良山は、福岡県久留米市に位置する標高312.3mの山です。古来より宗教的な山として崇められ、高良大社が建立されました。また、軍事的な要衝でもあったため、山中には神籠石式山城や住厭城といった遺跡も見られます。山はその美しい景観と豊かな自然、歴史的な遺産で知られ、観光客や地元の人々に愛されています。
高良山は、古くから様々な名前で呼ばれてきました。高牟礼山(たかむれやま)、不濡山(ぬれせぬやま)、青山山、梶山(かじやま)、琴弾山(ことひきやま)など、多くの別名が存在します。これらの名前からも分かるように、山は古代から特別な意味を持っていました。
高良山は耳納山地の西端に位置し、主峰である標高312.3mの毘沙門岳を中心に、5つの峰から構成されています。これらの峰には、東に本宮山、南に鷲ノ尾山、西に勢至堂山と虚空蔵山、北に吉見岳があります。地層は、変成岩層の上に角礫岩が重なり、その上にローム層が続く複雑な構造です。
登山道は、山頂にある高良大社や奥院へと続く複数のルートが存在します。代表的なルートとして、御手洗池から社殿に通じる表参道があります。また、宗崎から稲荷社を経由するルートや、山川町追分を起点とする裏参道も人気です。1933年には自動車登山道が開かれ、1969年には耳納スカイラインが全面開通し、車でのアクセスも可能となりました。
高良山の周辺は、豊かな自然が広がっており、登山者や観光客に多くの楽しみを提供しています。山頂付近は、久留米森林つつじ公園として整備されており、四季折々の花が咲き誇る場所として知られています。特に春には、ツツジが美しく咲き、訪れる人々の目を楽しませています。
山中には、高良山のモウソウキンメイチク林が広がり、これは国の天然記念物に指定されています。また、高良大社のクスノキの大樹は福岡県の指定天然記念物となっており、その威風堂々たる姿は圧巻です。さらに、山全体が鳥獣保護区に指定されており、キジの放鳥活動も行われています。
高良山には、歴史的な建造物や遺跡が点在しています。山頂には高良山奥院があり、中腹には高良大社が鎮座しています。南北の谷を囲むように、高良山神籠石が残っており、その歴史的価値が高く評価されています。
山中および山麓には、祇園山古墳、礫山古墳、高隆寺跡、御井寺跡など、多くの歴史的な遺跡が点在しています。また、座主の墓地や、伊勢天照御祖神社、高牟礼権現、宮地嶽神社、琴平神社、厳島神社など、多くの神社仏閣も見られます。
高良山の歴史は非常に古く、天武2年(673年)頃の創建とされています。その後、弘仁元年(810年)に隆慶上人によって講堂が改築され、彼が事実上の開祖となりました。隆慶は丹波氏の出身で、第48世玄逸まで丹波氏による管理が続きました。
中世には高良山を中心に、宗教的・政治的な勢力が形成されました。建武2年(1335年)には、麓の荘園で衆徒が濫妨を働いた記録が残っています。また、建武5年/延元3年(1338年)には、今川氏が高良山に陣を張り、肥前国から深堀氏や石動氏が来山したことが記録されています。この時期、高良山は南北朝時代の争乱に巻き込まれ、多くの戦いが繰り広げられました。
近世になると、神仏習合のもとで高良山は宗教や学問、芸術の拠点として発展しました。しかし、天正15年(1585年)に豊臣秀吉が九州征伐の際に高良山近くの吉見岳城に入城した際、座主の良寛(麟圭)は秀吉との対応を誤り、その所領を没収されました。その後、麟圭は新たに1000石を与えられましたが、小早川秀包と対立し、最終的に麟圭は暗殺され、高良山は封建制度に組み込まれることとなりました。
明治時代に入ると、神仏分離令が発令され、高良山の座主制度は廃止されました。これにより、多くの寺院が廃絶され、五百羅漢の石像も谷間に投下されました。戦後には、陸上自衛隊の幹部候補生学校(旧陸軍士官学校にあたる学校)の伝統行事として高良山登山走が行われるようになり、これは現在でも続いています。この行事では、生徒が体力の限界を超えることを目指し、学校から高良大社までの5.6km、標高差156mの道を限られた時間内に走り抜けます。
高良山は、歴史と自然が融合した素晴らしい観光地です。登山道や耳納スカイラインを利用して、四季折々の美しい景色を楽しむことができ、特に春には満開のツツジが訪れる人々を魅了します。また、神社や古墳など、歴史的な遺産を巡る旅もおすすめです。高良大社を中心に、歴史と自然に触れることができるこの山は、訪れる価値のあるスポットです。