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崇久寺

(そうきゅうじ)

崇久寺は、福岡県柳川市東蒲池に位置する臨済宗妙心寺派の寺院です。本尊は十一面観音で、長い歴史と深い縁を持つ寺院として知られています。

歴史と由緒

崇久寺の歴史は鎌倉時代末期にさかのぼります。寺伝によると、円爾の弟子である南山士雲がこの地に寺を開いたのが始まりとされています。その後、崇久寺は後醍醐天皇の勅願寺として、南北朝時代の動乱を耐え抜き、度重なる火災にも負けずに再建され続けました。特に、足利尊氏や蒲池家の支援により、再び繁栄を取り戻しました。

蒲池氏との関係

文亀年間(1501年~1504年)には、蒲池氏14代当主である蒲池治久により修復が行われ、以降は蒲池氏の菩提寺としての役割を果たしました。崇久寺はもともと「長福寺」という名前でしたが、享禄年間に治久が埋葬された際にその法号にちなみ「宗久寺」と改称され、さらに「崇久寺」に改められました。蒲池氏の全盛期には、家臣たちの墓碑が3,000基も並ぶ壮大な寺院でした。

度重なる破壊と再建

崇久寺は蒲池氏の栄枯盛衰に深く関わっていましたが、蒲池鎮漣が肥前で龍造寺隆信に謀殺され、一族が滅んだ際、寺もまた龍造寺氏の襲撃を受けました。この際、多くの仏像や文書が破壊され、寺は壊滅的な被害を受けました。しかし、幸運にも一部の文化財が破壊を免れ、今日に至るまでその貴重な遺産が伝えられています。

崇久寺と蒲池氏の結びつき

崇久寺は、代々の蒲池家の当主たちと深く結びついています。境内には、蒲池鑑盛や蒲池徳子など、蒲池氏一族の墓碑が立ち並び、その歴史を今に伝えています。

幕末の崇久寺と蒲池鎮勝

幕末には、蒲池鎮漣の娘である徳子の子孫であり、2千石の旗本であった窪田鎮勝(蒲池鎮克)が、最後の西国郡代として日田に赴任する際に崇久寺を訪れた記録があります。また、徳子の叔父である蒲池統安の子孫で、柳川藩の家老格だった蒲池鎮之とも面談したとされています。この出来事は、崇久寺が蒲池家の歴史において重要な位置を占めていたことを示しています。

崇久寺の文化財

崇久寺には、柳川市指定有形文化財として以下の重要な文化財が伝わっています。

木造十一面観音坐像付木造増長天像、木造多聞天像

これらの仏像は、崇久寺の本尊である十一面観音像に付随する増長天像および多聞天像です。これらの像はその歴史的価値から、柳川市の指定文化財として保護されています。

木造南山士雲坐像

崇久寺の創建者である南山士雲の木造坐像も、柳川市指定の有形文化財として伝わっており、寺の長い歴史を物語っています。

崇久寺の現在

崇久寺は、かつての広大な寺領や華やかな歴史を持つ寺院でありながらも、現在は静かにその姿を保ち続けています。蒲池氏の菩提寺としての役割を果たし、歴史的な価値を持つ文化財を守りながら、訪れる人々に深い感銘を与えています。

蒲池氏一族の歴史を伝える場所

崇久寺は、蒲池氏の栄光と衰退の歴史を今に伝える重要な場所です。特に、蒲池氏一族の墓碑が立ち並ぶ境内は、訪れる人々にその歴史の重みを感じさせます。地域に根付いた信仰の場として、また歴史的な価値を持つ文化遺産として、崇久寺は今も多くの人々に親しまれています。

崇久寺へのアクセス

崇久寺は福岡県柳川市東蒲池に位置し、公共交通機関や車でのアクセスが可能です。柳川市内の観光スポットとあわせて訪れることができ、静かで落ち着いた雰囲気の中で歴史を感じることができます。

崇久寺周辺の観光

崇久寺を訪れた際には、周辺の観光地もぜひ楽しんでください。柳川市は、水郷柳川としても知られ、川下りやうなぎ料理で有名です。崇久寺の訪問とあわせて、地元の文化や美しい自然も堪能することができます。

まとめ

崇久寺は、福岡県柳川市に位置する臨済宗妙心寺派の歴史ある寺院で、蒲池氏一族との深い結びつきを持っています。歴史的な背景や文化財、そして現在まで伝えられてきたその価値は、訪れる人々に深い感銘を与え続けています。静かな佇まいの中で、歴史の一端を感じながら、ゆったりとした時間を過ごすことができる崇久寺は、ぜひ一度訪れてみたい場所です。

Information

名称
崇久寺
(そうきゅうじ)

柳川・久留米・筑後

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