久留米城は、福岡県久留米市篠山町に位置し、かつては筑後国の有力な拠点として栄えた城です。城は江戸時代に久留米藩の藩庁として使用され、摂津有馬氏が居城としていました。現在、城の本丸には有馬記念館と篠山神社が建っており、城の跡地は現代の都市景観と融合しています。かつての二の丸・三の丸は、ブリヂストンの久留米工場敷地となり、城の外郭は市街地として整備されています。
久留米城は、2017年に続日本100名城(183番)として選定され、歴史的な価値が再評価されています。
久留米城は、久留米市街の北西部、筑後川の左岸に位置しており、丘の上に築かれた平山城です。城の構造は、北西に筑後川を天然の堀として利用し、比高差約15メートルの丘陵の上に本丸が設けられていました。さらに、南側には二の丸と三の丸が配置され、城下町と外郭が連郭式に広がっていました。
本丸の規模は東西約96.4m、南北約156.4mで、石垣の高さは約14~15メートルに達し、壮大な姿を誇っていました。天守は存在せず、本丸には7つの三重櫓が配され、それぞれが多聞櫓によって連結されていました。
久留米城の歴史は、室町時代後期の永正年間(1504年~1521年)にこの地の土豪が築いた「篠原城」という砦から始まります。その後、天文年間(1532年~1555年)に御井郡司の某が修築し、本格的な城郭としての形を整えていきました。
1573年、高良山の座主である良寛の弟・麟圭が城主となり、1578年の耳川の戦いでは大友方として出陣。しかし、その後麟圭が龍造寺氏に寝返り、さらに1587年には豊臣秀吉の九州平定に伴い、小早川秀包によって久留米城の主権は移されました。
秀包が城主となると、篠原城は織豊期城郭への改築が行われ、堀の掘削や石垣の積み上げ、天守の設置がなされました。また、キリシタン大名であった秀包の影響で、城下町には教会も建設され、異国文化が取り入れられた都市風景が形成されました。しかし、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、秀包は改易され、城は再び主を失うことになります。
関ヶ原の戦い後、筑後国には田中吉政が封じられ、久留米城は柳川城の支城として使用されました。しかし、1615年の一国一城令により、一時的に廃城となります。その後、1621年に有馬豊氏が新たな藩主として久留米城に入り、大規模な拡張と再建が行われました。
豊氏は、荒廃していた久留米城の再建を行い、1631年には筑前堀を完成させ、1649年から4年間かけて城下町を整備しました。さらに、2代藩主有馬忠頼の時代にも城郭の整備が続き、1691年には4代藩主有馬頼元によって城郭がほぼ完成しました。以後、久留米城は明治維新まで有馬氏の居城として機能し続けました。
1871年、明治政府の廃藩置県に伴い、久留米城は廃城となりました。その後、城の建造物は取り壊され、1879年には本丸御殿跡地に篠山神社が建立されました。現在でも、篠山神社は久留米城跡の象徴的な存在として、多くの参拝者を迎えています。
1960年には、ブリヂストンの社長・石橋正二郎の寄贈により、城の冠木御門に自動車用スロープが整備され、本丸内には有馬記念館と東郷記念館がオープンしました。さらに、1983年には久留米城跡が福岡県の県史跡として指定され、歴史的価値が広く認識されるようになりました。
久留米城の本丸は城の中心的な存在で、内部には本丸御殿が建てられ、歴代の藩主がここで政務を執っていました。現在、御殿の跡地には篠山神社が建てられ、本殿や拝殿が鎮座しています。また、本丸の北西側には「大井戸」と呼ばれる巨大な井戸が現存し、当時の生活を垣間見ることができます。
本丸を取り囲む石垣や櫓跡も、多くが現存しています。特に「巽櫓」は、城内で最も規模が大きく、天守の代用として使用されていました。現在でもその基礎石や石垣が確認でき、歴史的な城郭の規模を実感することができます。
久留米城の大手虎口にあった「冠木御門」は、城の南正面を守る重要な役割を果たしていました。この門は、土橋を渡った先に位置しており、城の防衛構造の一環として機能していました。現在、冠木門の土塀石垣や櫓台石垣が残されており、その歴史的価値が保存されています。
現在の久留米城跡には、有馬記念館や篠山神社が建てられており、観光地として多くの人々に訪れられています。有馬記念館では、久留米城や有馬氏に関する資料が展示されており、篠山神社は城の歴史と結びついた文化的な存在となっています。
久留米城の遺構は、石垣や井戸、櫓跡などが現存しており、訪れる人々に城の壮大な歴史を感じさせます。
久留米城は連郭式平山城で、北西側に筑後川を天然の堀とし、その比高差約15メートルの丘陵地に築かれていました。城の中心である本丸は、平坦な丘陵の頭頂部に位置し、その周囲に二の丸、三の丸、外郭(四の丸)、柳原などの郭が配置されていました。久留米城には天守は存在せず、代わりに本丸には二重の多聞櫓で連結された三重櫓が各隅に7棟設置されていました。
本丸は城の中心で、東西約96.4m、南北約156.4mの広さを誇り、石垣の高さは14mから15mに達していました。中央には本丸御殿が建てられ、周囲には二重の多門櫓で連結された7棟の櫓が配置されていました。現在、櫓台石垣の一部が現存し、往時の面影を伝えています。
久留米城の中心的な建物で、歴代藩主が政務を行う場所でした。しかし、1874年(明治7年)の廃城令によって解体されました。現在は篠山神社の本殿・拝殿が本丸御殿の跡地に建てられています。また、北西側には大井戸が現存し、当時の城内の生活を偲ばせます。
本丸御殿の北西側に位置する大井戸は、固い岩盤をくり抜いて造られたもので、非常に堅固な構造を持っていました。現在は覆いや金網が施され、落下防止のため保護されています。
本丸の南面にはいくつかの重要な建物が配置されていました。その中でも、冠木御門や坤櫓、太鼓櫓、巽櫓は特に注目される遺構です。
本丸の大手口にあった桝形門で、二の門として冠木門(平門)、一の門として櫓門が設置されていました。現在、門礎石は確認できない状態ですが、櫓台石垣が現存しています。
本丸の南西隅にあった三重櫓で、櫓台石垣が現存しています。現在は有馬記念館や民家がその上に建てられています。
本丸南側にあった三重櫓で、冠木御門の西に位置していました。櫓台石垣が現存し、城の遺構として保存されています。
本丸南東隅に位置していた三重櫓で、久留米城の中でも最大規模を誇り、天守の代わりとして機能していました。現在も櫓台石垣が残っており、城跡の象徴的な遺構となっています。
本丸の東側には東御門や月見櫓、艮櫓などが配置されていました。
本丸東側に位置し、月見櫓に付属していた門です。別名「月見櫓御門」とも呼ばれ、現在は門礎石の一部が現存しています。
本丸東に位置していた三重櫓で、櫓台石垣が現存しています。その直下には蜜柑丸があり、現在は篠山神社の駐車場となっています。
本丸北東隅に位置していた三重櫓で、現在は石垣が現存しています。
本丸の東側にあった郭で、蜜柑の木が植えられていたことから「蜜柑丸」と呼ばれていました。現在は篠山神社の駐車場として利用されています。
筑後川沿いに位置し、有馬記念館や社務所、東郷記念館などが建てられています。
本丸西側にあった門で、篠山神社社務所の敷地内にその跡が残っています。門自体は廃城後、久留米市内の寿本寺に移築され、現存しています。
本丸北西隅にあった三重櫓ですが、現在は石垣が残っていません。
本丸西側にあった三重櫓で、水手御門と連結されていました。現在は櫓台石垣が現存しています。
本丸の南に位置し、藩主の御殿があった郭です。現在はブリヂストン久留米工場の一部と従業員駐車場として利用されています。
二の丸のさらに南に位置し、御蔵屋敷や久留米藩の家老たちの屋敷があった郭です。現在も土手の一部が遊歩道として残っています。
外郭は久留米城内で最も広いエリアで、三の丸の南に位置していました。ここには久留米藩の上級家臣の屋敷が多く、藩役所も設置されていました。例えば、御郡支配方や御普請方の役所があり、藩政の中心地として機能していました。また、教育や信仰の場として「明善堂」や「祇園社」が設けられていました。現在、このエリアには福岡地方裁判所久留米支部や久留米市立城南中学校、篠山小学校が建っています。
大手門は外郭の南西に位置しており、久留米城の中で最も格式の高い門でした。この門は亀屋町とつながっていたことから「亀屋町口橋」とも呼ばれていました。藩主が参勤交代の際に使用されたこともあり、特に重要な門としての役割を担っていました。現在、この場所には篠山神社の鳥居が建てられています。
狩塚橋は外郭の南東に位置していた門で、主に祇園社で行われる「祇園会」の際に使用されていた山車の出入り口でした。現在、狩塚橋があった場所には久留米商工会議所が建っています。
祇園社は外郭の中心部より少し東に位置し、875年(貞観17年)に創建された真言宗の寺院でした。神仏分離令により、1868年(慶応4年)に祇園神社(素戔嗚神社)となりました。毎年6月に行われる「祇園会」は、久留米城の城下三大祭りの一つで、藩主や家族も見物するほど大規模な祭りでした。
明善堂は外郭の南に位置し、久留米藩の藩校として機能していました。1783年(天明3年)に第8代藩主有馬頼貴によって設立され、当初は「修道館」と呼ばれていましたが、1794年(寛政6年)の火災で焼失した後、1796年(寛政8年)に再建され「明善堂」と名付けられました。現在の福岡県立明善高等学校の前身です。幕末の勤王家である真木保臣もこの学校の出身者として知られています。
御使者屋は狩塚橋の対岸にあり、1831年(天保2年)に片原町に建設されました。久留米藩の迎賓館として利用され、明治時代には三潴県役所や久留米市役所としても使用されました。現在は「両替町公園」となっており、当時の築地塀や玄関口の石垣が保存されています。
柳原は外郭から本丸、二の丸、三の丸の東側に細長く伸びるエリアで、かつては中級武士の屋敷が建っていました。しかし、低地であったため、1676年(延宝4年)に京隈へ移転され、以降は庭園や柳原焼の窯が設置されるなど、文化的なエリアとして利用されるようになりました。現在、久留米大学医学部や久留米大学病院がこの地域に位置しています。
久留米城の遺構の中で、現在も残っているのは本丸の月見櫓や巽櫓、坤櫓の石垣、水堀の一部です。また、外郭(四の丸)の堀跡や土塁も一部が福岡地方裁判所の隣に現存しています。明治時代の初期には城の大部分が解体されましたが、久留米市草野町草野の寿本寺山門として本丸の水手御門が移築され、現存しています。
以前、二の丸の乾門(二の門)はJR久留米駅の西側にある京町の日輪寺山門として移築されていましたが、1989年(平成元年)に老朽化のため解体されました。その後、同じ場所に再建され、現在に至っています。
久留米城跡は、歴史的な背景を持つだけでなく、美しい景観も楽しめる観光スポットです。篠山神社や両替町公園など、久留米城の遺構を巡りながら、江戸時代の久留米藩の歴史に触れることができます。また、久留米市立城南中学校や篠山小学校など、城跡が現代の教育機関としても利用されている点も興味深いです。
春には桜が咲き誇り、城跡周辺は花見の名所として多くの観光客が訪れます。秋には紅葉が美しく、静かで落ち着いた雰囲気の中で歴史を感じることができます。篠山神社の鳥居や石垣の残る風景は、写真撮影にも最適です。
久留米城跡へのアクセスは、JR久留米駅から徒歩圏内にあり、公共交通機関を利用しても便利です。また、久留米市内には観光スポットが多数点在しているため、一日を通して久留米の歴史と文化を堪能することができます。
久留米城跡を訪れた際には、久留米市内の他の観光スポットも合わせて楽しむことをお勧めします。例えば、石橋文化センターや久留米市美術館、久留米大学などが近隣にあり、文化的な体験が豊富に得られます。
久留米城は、歴史的な価値だけでなく、現在も多くの人々に愛される観光スポットです。城跡を巡りながら、久留米藩の歴史や文化を感じ、自然の美しさを楽しむことができます。ぜひ久留米城跡を訪れ、その魅力を体感してみてください。